吉田健一の本は、近藤康平さんとのオンラインイベントのために『金沢 酒宴』を読んだのが初めてで、その時の衝撃がすごかった。
こう夢の中で気持ちの良いことがずっと続いているようなそんな感じ。悔しかったのが書かれていることがほとんど理解できなかったことだ。うつわや酒など日本的教養に満ちていて、吉田健一の迂回路だらけの文章と相まってこっちまで酔ってくるというかなんというか。
そんな読書体験は初めてだったのでこれはもう少し読んでみたい。でも正直読みやすいわけじゃないからいきなり次の本を選ぶのはハードルが高い。どうしよう。
そんなことを思っていた矢先にオンラインイベント「Basic Insight Vol.1「いま」おすすめ本5冊、是非行ってほしい素敵な本屋5つをピックアップするならば。」でご一緒したフリーライターの宮崎智大さんが『吉田健一ふたたび』の執筆メンバーだったので次に読むなら何? と聴く機会に恵まれたのだった。
そこで勧められたのが本書『わが人生処方』だった、というわけだ。小説ではなくエッセイなのだけれどもこれが面白い、や、面白いというと語弊があるか。こう興味深いというか信用できるというか。
他の本と比べるのもおかしいけれど、伊丹十三のエッセイを読んだ時は昔の人の倫理観をエッセイで読むとこんなにキツいのかと途中で読むのをやめちゃったけれど、吉田健一は倫理観的にもいまとそこまで(少なくとも本書の中では)変わらない感じがして、そこにあのボヤくような迷路にわざと嵌まり込むような文体が相まってほろ酔い気分で眠れるみたいな。でも読んでいて良いなーと思うようなこともたくさん書いてあってよい夢見れそうみたいな。
いくらここで文字を費やしても分からないだろうと思うので以下気になったところをいつものように引用・要約していく。
"芸術論といふものが幾通りあつても、芸術の実体がそれでどうにもなるものでもないのと同じ訳で、人生の解釈などやつてゐるよりも、人生は一つしかないのだから、実地に当つて見る方がどの位ましで、面白いことか解らない。"
p.16
"先づ友達を二人家に呼んで飲み食ひする楽みの為に稼ぎ、それが何でもなくなつたら五人呼ぶ為にといふ風にすれば稼ぐ金に意味があり、だから幾ら本屋に印税のことを煩く言つても汚らしい感じがしない。その伝で行けば、百万、二百万の印税、或は原稿料が入るやうになつても(例を文士に取ればである)、その金に一つ用途があり、だから澄み切つた心境で本屋に金の催促ができる。
p.20
つまり、魂を失はずに生きて行く為に、肉体的な楽みに執着することが必要なのであり、人間が出世するのは珍しいことではないのだから、さうなると益々食欲その他を旺盛にしてわ魂を繋ぎ留めて置くことが大切になる"
併しそれでも我々は、殊に我々に少しでも才能に似たものがあれば、仕事を続ける。…略…仕事をしてゐれば、自分に出来ることの限界も解つて来る筈である。つまり、したいことは何でも皆してしまつて、後は暇潰しにビヤホオルにでも出掛けて行くといふ境地、そこまで辿り着きたいので仕事をしてゐるのだと、時々思ふことがある。"
p.40
"我々は現在、自分が置かれてゐる状態に縛られてはゐなくて、過去にも、未来にも道が開けてゐることは、つまりは一人でゐる訳ではないといふことにもなる。過去には死んだ親しい人達や、自分がした仕事があり、未来には、少くともその果てには静寂が我々を待ってゐる。"
p.56
"その朝の酒は旨かった。我々には滅多に朝酒を飲む余裕がないといふことも手伝つて、全く太陽を飲んでゐるやうだつた。"
p.60
"人間である限り、考へないではゐられないだらうし、考へることが思想ならば、我々は思想と縁を切ることが出来ない状態に置かれてゐる。大体、それが思想と我々が呼んでゐふものである時、望まれるのはルネッサンスであるよりも、無駄でしかない贋ものが整理されることではないだらうか。それと、体力である。"
p.68
"バアにも、「オール讀物」にも、再び生活が現れるといふこと。これは一つの楽みではないだらうか。"
p.75
"本当の所は、人生は退屈の味を知つてから始る。"
p.79
"戦後に我が国で人間が動物であるといふ事実が見失はれたやうであることで、この場合もそれでは我々は何なのかと聞き返したくなる。"
p.92
"例へば靴が作るのが好きでも靴屋でなければ余暇でしかそれが出来ない。併しそれならば靴屋に何故ならないのか。或は靴屋が靴を作るのとに時間を見出してどうしていけないのか。かうして生活が余暇である生活もある筈である。"
p.109
"何がそれならば占めてゐるのかと言へば多くは言葉にならないこと、或は少くとも新聞記事や演説口調の言葉にならないことが我々の暮し、我々に我々であることを得させてゐる銘々の生活をなしてゐる。例へばそれは夜眠れること、大事な盆栽が枯れずにゐることの類だらうか。"
p.113
"さうすると、そんなのは贅沢ではないかといことになる。勿論さうであつて、贅沢が嫌ひで文学を愛するなどといふのは見当違ひも甚しい。この世界には遊びしかないので、それを真剣な遊びだの、命掛けの遊びだのと称するのは、遊びといふことに対する後めたさから無駄口を叩いてゐるに過ぎない。"
p.174
"我々が本を読むのはどうもかうして息を整へる為にであるといふ気がする。"
p.183
"寧ろ人間も何かの道具になつて仕事をすることがあることを思へば本もこの物質と精神で価値が決る人間に近いものでそのことが念頭にあつてのことでなければ本は道具でさへもなくてただ印刷インキが附着した紙の束に過ぎない。"
p.191
"結局はなだらかといふことに帰するだらうか。或はそれはなだらかと見なくて夕日を浴びてゐるといふ方に影像を持つて行つても構はない。それが険しい道であつても夕日を浴びてゐればそこを歩いていく気を起すものでその時に意識の重点は道が険しいことでなくてそれが夕日を浴びて光つてゐることにある。それ以外にも人間が言葉といふものを通して我々に覚えさせる親みはどういふ風にでも形容出来るがそれが生真面目だつたり粗雑だつたりすることから遠いものであることは確かである。
p.202
さういふ親みがある言葉は自分で書く他ないのかと思ふこともある。"
"併し文学の仕事にどれだけのさうした値打ちがあるのか。そこで行はれてゐる価値の観念は全く別の系統のものに属するから値段の付けやうがなくて"
p.219
"仕事をしてゐる人間は息を切らせたりしなくて、仕事では息の具合が他の一切を支配するのであるよりは何をするのも息をすることなのである。"
p.223
"彼のあの「すべてよし」という「夕暮れの感性」は、これからの日本人にとってずいぶん参考になるんじゃないでしょうか。"
p.262
(夕暮れの美学ー父・作家、吉田健一 吉田暁子 松浦寿輝より)