本は読めいているしメモも書いてはいるのだけれど祖師ヶ谷大蔵への移転関連でまったくアップできていなかったので、とりあえず2023年の1月~4月分をアップする。
今回読んだのは『リタとマッサン』、『Sunny Side』、『チキンライスと旅の空』、『世界は「使われなかった人生」であふれてる』、『【増補版】うまい日本酒をつくる人たち』、『USO 4 特集 YES』、『深海生物学への招待』、『浮きて流るる』、『物語のあるところ』、『酔っ払いは二度お会計する』、『たやさない つづけるためのマガジン』、『Memories』、『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』、『安井かずみがいた時代』の14冊だ。
『リタとマッサン』(植松三十里、集英社文庫)
2023.4.8読了。NHK朝ドラになっていたので気になっていたのだがようやく読んだ。鳥井さんが出てくるからサントリーの話かと思ったら余市の話だったのね。
終盤、熟成が必要なウイスキーという商材のために子供のいなかったリタとマッサンが事業を引き継がせる養子を取ろうという話が出てくる。なんでだろう。こういう話、10年くらい前の自分なら嫌だった気がするけれど今の自分にとっては魅力的に思える。インスタントな現在に対してタイムスパンの長い話は新しく思える。
『Sunny Side』(小鳥美茂、BEACH BOOK STORE)
2023.4.25読了。どこで買ったのかな。たしか永井宏さんの『A BOOK OF SUNLIGHT GALLERY』を読んだ後だから……ダメだ、思い出せない。
永井宏さんのことは同書を読んでから興味があって、鎌倉界隈と中目黒界隈のカルチャーの人という認識であって、それは2000年代の本屋のことやBSTのひと箱店主でもあるアロマ書房さんが鎌倉が拠点だということもある。さらに、五里霧中でも書いたけどミネシンゴさんとも遠い繋がりがありそうで、そんなこんなでどんな人なのかどんな場所なのかどんな風景なのかあるいは雰囲気なのかに興味を持っていた。
本書は永井宏さんの関係者の一人でもある著者が由比ヶ浜にあったBOON FREE WORKSを運営していた4年半のことを綴った記録である。
ものづくりと、つくったものを発表するということ。素敵だと思っていた人からの思いもかけない誘いと、そこから始まる大切な場所の運営。
海が見える気持ちの良い窓辺が写る表紙の写真と、冒頭と最後の写真から伝わる静かな明るさ、そして著者の肩肘張らない、でも懸命な文章がすんなり心に入り込んできて。大切なことを大切にするということがどんなことなのかを考えさせられた。
読んでいると呼吸が自然と深くなる、休日に読むのにピッタリの本だった。
『チキンライスと旅の空』(池波正太郎、中公文庫)
『散歩のとき何か食べたくなって』(新潮文庫)からやっぱりすごいなあ味わい深いなあと思って読むようになった池波正太郎のエッセイ2冊目である。
今回もまた染み渡るようによかった。
「家」での
"情緒をうしなった町は〔廃墟〕にすぎない。"
"一つの家には、平常の場合、かならず老人がい、夫婦がい、子供がいた。老人のいない家は〔家〕ともおもわれなかった。老人がいないと、衣食住の基本が若い女たちへつたえられない。おぼえられないからであり、おぼられなくえは日々の暮らしに女自身な困るのであった。これがすべて、金しだいで何とでもなり、電気がすべてを仕てのけてくれる時代では、なるほど、老人が要らなくなるわけである。"p.48-49
は家族観の変遷と技術の与える影響に思いを馳せて『テクニウム』を思い出さずにはいられないし、
同じく「家」で
"戦後、輸入された自由主義、民主主義は、かつての日本の融通の利いた世の中をふみつぶしてしまった。皮肉なことではある。
もっとも、百年前のアメリカが、そうだったらしい。
日本も、この新しいモラルを自分のものとするまでは、百年かかるのだろうか。"p.57
では『公共図書館の消滅するとき』で著者が日本に民主主義が浸透していないことに憤慨していたこととに思いを馳せてしまう。
そういった社会批評的なものもあれば、「母」で
"自分だけのたのしみなくして、なんではたらけよう、と、いうわけだ。"p.31
や「私の一日」で
"一日の仕事を、どれにしようかと選ぶことができるためにも、時間の余裕をもっていなくてはならない。"p.75
というところなどは忙しくて心を見失いがちな自分に突き刺さる。
「散歩」で俳優のジャン・ギャバンのセリフを大好きな言葉を引く。こうだ。
"むずかしいことは、その道の商売人が考えてくれる。人間はね、今日のスープの味がどうだったとか、今日は3時間ばかり、一人きりになって、フラフラ歩いてみようとか……そんな他愛のないことをしながら、自分の商売で食っていければ、それがいちばん、いいんだよ」
まったくその通りだよなあ、と思う。思う? いや自分はまだそう思うようになりたいという道の上にいる気がする。僕は生活をしたいのだ。
話がズレた。
それはそうと、そう、生活だ。池波正太郎の話には生活があって、それは映画の試写会に行って帰りに銀座を散歩して蕎麦屋などに入り一杯引っ掛けて帰り、仮眠をしてから、夜中に文章を書く。
夜中はとにかくとして、映画の試写会をした後に散歩してお気に入りの店に行き、後は仕事をする、というこのスタイルになんだか憧れてしまうのである。
読んでいるときは付箋を忘れてしまったのでドッグイヤーをしていたのだがたくさんの折り目がついてそれを全てここに書いても仕方のないことなので書かないが、まあ、こう、生活の指針的なものを見つけたのかもしれない。と読み終わって思ったのだった。
『世界は「使われなかった人生」であふれてる』(沢木耕太郎、幻冬舎文庫)
2023.4.22読了。池波正太郎が殊の外よかったので定番的な名文的な作家の文章はやっぱり良いのかも、ということで購入。読む。
で、やっぱり良かった。「使われなかった人生」ってまずこの時点で良いよねという話なのだけれど。でも読む前は映画評だとは思ってなかった。
そして、4/22の日記(非公開)に書いたけど試写会に行くのが楽しみな老人って良いなあと思えた。田中小実昌もそうらしいから今度読もう。
"スウェーデンでは、かつての日本人が一九四五年八月一五日の「玉音放送」のときに自分がどこにいたなを忘れなかったように、あるいはアメリカ人が一九六三年一一月二二日の「ケネディ暗殺」のときに自分が何をしていたかを覚えているように、一九五九年六月二六日のヨハンソンの勝利のときに自分がどこで何をしていたかを誰もが忘れないでいたという。" p.50
→こういう海外の豆知識の挿入、素朴に良いよなあ。たぶん『マスターキートン』が好きなのと同じ理由で良いと感じる。
"私たち観客の眼に、この「バクダット・カフェ」が砂漠の中のパラダイスのように映るとしたら、それはここが悪意の不在の場所として描かれているからに違いない。"p.69
→そんな映画、観てみたいと思った。
"重要なことは、どのような望みを抱くかにあるのではなく、抱いた望みを忘れないことである。つまらぬ望みを抱くことを恐れる必要はない。真に恐れるべきなのは、あまりに多くのものを望みすぎ、何を望んでいたかさえわからなくなってしまうことだ。"p.101
→よくわからなくなる自分である。まあでもそんなものだとも思う。
"スクリーンの向こうには、いくつもの街があり、人がいた。そこでさまざまな街と出会い、人に出会うことができた。映画を見ることで、確実に「もうひとつの旅」ができる。"
→旅と言われると気になっちゃうよなあ。映画のこと、気になっちゃうなあ。
ほか紹介された『青いパパイヤの香り』、『シェルタリング・スカイ』、『テルマ&ルイーズ』、『ダンス・ウィズ・ウルブズ』『ムトゥ踊るマハラジャ』は琴線に触れたので観てみたい。
『【増補版】うまい日本酒をつくる人たち』(増田晶文、草思社文庫)
一年くらい前から自分はお酒が好きなんだなあ、とようやく自認できたのでお酒の本を読もうと思って読む。買ったのはどこか忘れた。読了は4月末ごろ。
文章が非常におっさんくさいのが鼻につくがお酒の味の表現は参考になる。第九章「うまい酒をつくるということーーモルトウイスキー、クラフトビール」に大学時代の先輩が出てきたのには驚いた。サークル時代からこだわりの強い人だったけどすごいなあ、と感心したのだった。
あとは長野のお酒が好きなので大信州の蔵元を訪ねた第十一章「文化をになう酒ーー大信州」は興味深かった。
"渡邊氏によれば「稚」とは混沌とした「まだ正体のわからない状態」「完成前の不安定な状況」をいうそうだ。" p.74
あらためて付箋を貼った場所を読み直して引用、という知識としてメモしておこうと思ったところがここだった。神宮禰宜に聞いた話として出てくる。お酒の話は日本神話と絡んでくるよなあ。
『USO 4 特集 YES』(rn press)
自由港書店・店主(旦悠輔さん。本書ではじめて知った)の文章が読めると知って購入。知ったのがいつかは覚えていない。とにかく知ってから買うまでに時間が空いたのは覚えている。そういうことが多いのだ、僕は。
『USO』はBSTでよく売れている雑誌で、祖師ヶ谷大蔵に移ってからも売れているので気にはなっていたが読めずにいた。良い機会と読んで、読み終わった後に思ったのはもっと早く読みたかった、であった。
それは執筆陣に自由港書店・旦さんだけでなく、BOOK NERD早坂さんも、本屋Title辻山良雄さんがいるということもあるし、『さよなら未来』の若林恵さんがいたり『ディエンビエンフー』の西島大介さんがいたり『weの市民革命』の佐久間裕美子さんがいたりすることもある。
それもある。それもあるが何より全体に流れるリズムのようなものが心地よかったのだ。エッセイとマンガと小説の押しては返す波のような拍子に、次はどんな文章なんだろう、とワクワクさせてもらえた。ジャンルもやってることもまったく違うが『ここがウィネトカならきみはジュディ』を読んでいる時の気分に近い。
そんなこんなで読書の喜びを感じさせてくれた。3巻以前も読みたいし実店舗のRIGHT NOW BOOKSTANDも訪ねてみたいな。
以下気になった文章を引用。
"すべてが、平凡な日常を淡々と繰りかえすための儀式であり、そのためだけに、九十二年ものあいだ命を一定の温度で燃やし続ける執念が、おじいちゃんを異形にさせたのだ。"「わたくしがYES」(少年アヤ)p.118
→平凡と一定と執念と異形。
"そのときわたくしは、いんちきだと指をさされ、自尊心を焼き切られるまえの、ありのままのわたくしの姿に、ようやく帰ることができた気がした。ジェンダーのいばらが、この身に絡みつくまえの、かつて最強だった、わたくしの姿に。"同作 p.126
→第一人称が「わたくし」なの好き。
"「ビジネスの開店資金に貯めていたキャッシュと、これから売る予定だったウィードだ。とりあえず何も残らないけど、しょうがない。」「ストーリーテラー(佐久間裕美子)p.173
→小説。友人のために「しょうがない」と言って大金を渡せるフィリックスがカッコ良すぎて。
"私は、大工になりたい、と思ったのだ。理由は単純だ。家を建てたい、と思ったのだ。自分で。「なんか違う」「なんか違う」、それなら自分で材木の一本一本選び抜いて、自分の手で家を建てればいいんだ。" 「私と嘘」(旦悠輔)p.264
→「なんか違う」を繰り返してきた男が直感に身を委ねるその瞬間、その飛躍が美しいと思った。まああとで失敗するのだが。それも含めて美しい。
"港はよかった。港にいる誰も、何も、背負っていなかった。誰も、誰にも、干渉しなかった。自由だった。風だけが吹いていた。風は一カ所にとどまらない。常に流れていく。船もそうだ。神戸では、街のいたるところでジャズが流れている。ジャズもまた、いつの間にか始まって、いつの間にか終わっていく。"同作 p.270
→自分の好きな探偵ものとか弁護士もののドラマにある自由と孤独と、それでもあるシガラミみたいなものを思い起こした。なぜか。
"先日、「野口さんは生まれ変わったら誰になりたいですか」と若者に聞かれたとき、「生まれ変わっても、また私になりたい」と答えた。「あとがき」(編集発行人の野口理恵) p.319
→信用できる方なのだなと思った。それとあとがきそれ自体がおもしろい。やはり創刊号から読み直さねば。
『深海生物学への招待』(長沼毅、幻冬舎文庫)
サカナブックスの取材の際に買う。一色登希彦版『日本沈没』で日本海溝の話も出てきたし、五十嵐大介『海獣の子供』も好きだし、深海についてはなんとなく興味があったのだ。
で、本作はというと深海の熱水噴出孔に棲むチューブワームと呼ばれる生き物の生態について深海生物学まわりの雑学と一緒に軽妙に語る、といった内容である。
自分で書いておいてなんだが雑学的な、豆知識的な本かと思われるかもしれない。確かにそうである。しかし、それでも本書が良い本だと僕が思うのは著者が文中にちょくちょく文学からの引用を入れるところで、そうされるだけで急に身近に感じられるから不思議だ。
その文学というのは川崎洋の詩「海」や中原中也「サーカス」、窪田空穂「明暗」、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」、アーサー・C・クラーク『海底牧場』、秋道智彌『海人の民族学』などのことで、また同じサイエンス分野の本だと『ゾウの時間 ネズミの時間』(本川達雄)からも引用されておりこれは読みたくなった。
考えてみれば人間の世界は宗教以外の学問はすべて文学だった時代が長い訳(たしか『切りとれ、あの祈る手を』でそんなことが書かれていた)だから、科学の本で文学の言葉が出てきても何も不思議じゃない訳で、むしろそれこそが世界をより鮮明に表しているような気もする。
最後に印象に残った言葉を2つ。
"生物がいないからといって生命がないとはいえないのだ。生命とは可能性(ポテンシャル)なのだから。" p.54
"物質に秩序を与えたものは表面(界面)だと考えられている。" p.175
『浮きて流るる』(落合加依子、小鳥書房)
日記を読み返していたら年明けに読んでいたみたい。年明けといえば、融資申請をして答えを待っている段階であり、つまり冷や冷やモノな時期なのであり、そんなナイーブな時期に本書はぴったりと寄り添ってくれたのだった。
BSTに出店してくれてもいた谷保の出版社兼本屋・小鳥書房店主による日記本である本書を読んでいるとこんなにも繊細な感覚を書き残していけるのかと驚くのである。自分の日記は出来事ベースで考えたこと感じたことは二言三言添えるくらいなものだが本書ではそちらがメインディッシュになっており、でもそのひとつひとつの出来事とそれに対する自分の反応を大事にしていく姿勢は、すぐに灰色の男に捕まってしまいがちな自分にとってバランスを取ってくれるような天秤の向こう側に立ってくれるような、そんな読書体験だった。
谷保の人々、店、母、インターン、日々の出来事、別れた元夫のこと、どうにもならない自分と他者の感情。それらを細かに掬い上げる手つきが素敵なのだった。
あと読んでいて谷崎潤一郎の『文章読本』を読みたくなった。
"「言葉と云うものは案外不自由なものでもあります」「言葉や文字で表現出来ることと出来ないこととの限界を知り、その限界内に止まることが第一」"
→という本書内孫引きの文章には深く頷いた。
三月クララさんの寄稿も良かった。写真集『ダレオド』の元の文はアルフレッ→ド・D・スーザという牧師のことばだったのね。
"幸せは旅であって目的地ではない
踊れ、誰もみていないかのように
恋せよ、傷ついたことがないかのように
歌え、誰も聞いていないかのように
働け、金など必要ないかのように
生きよ、今日が最後の日であるかのように(この地上が天国であるかのように)" p.248-p.249 文中からの孫引き
『物語のあるところ』(吉田篤弘、ちくまプリマー新書)
Twitterで検索したら去年の12月、本屋象の旅に行った時に買ったらしい。こういうときSNSに投稿しておくのは便利。
帯には物語論と書いてあるのだし確かにそういう内容でもあるのだけれども、読んでみるとこれも一種の小説なのではないかと感じる本であった。
というのも、著者が自著の舞台でもある月舟町の登場人物たちと相談しているかのように物語について語らせているからだ。現実と月舟町が混じり合っているかのように書いているからだ。
物語を書く作家という生き物にとって世界はもしかしたらこのように見えているのかもしれない、なんて思わせてくれて、それはそれで自分とは違う世界に旅させてくれるという点で本書は物語論の名を借りた物語なのだろうと感じた。
"俺は漢字の『林檎』をひらがなの『りんご』にひらいてくれるようなものを読みたいんだ" p.19
"どうして小説をーー物語を書きたいのかと考えてみれば、いろいろな「私」と出会いたいからだ。"p.44
"右左、右左と繰り出す歩みが、「さぁ」「どうなんだ」「さぁ」「どうなんだ」と停滞した思考を促す。錯覚かもしれないけれど、前へ進みつつのほっていくことが、考えの進み行きに拍車をかけるような気がする。だから、考えが停滞したときは机から離れて歩くのがいい" p.56-57
"皿の上に何かしら載せてるんじゃねぇかとは思うけど、それが何なのかは、作者にも、読者にも、俺にも、神様にもよく分かんない。『はい、これでございます』って言えねぇんだよ。よく分からないものを、なんとか皿に載せて届けようとしてる。その試みが、書いたり読んだりするってことじゃねえのか?…略…簡単に言えないものをなんとか手渡そうとするーーその努力に心が動かされる。違うかい?" p.65
"人間には、分からないこと、理解できないこと、どうにもならないことが山ほどある。だから、お互いの愚かさをいたわるために、いろんな言葉を発明してきた。それもまたひとつの文化なんだろうし、行き着くところ、すべては争いを回避するための知恵なんじゃないかと思う" p.76
"誰だってほしいよ。希望がね。いや、少しでいいんだよ。贅沢は言わない。アンタの言う『遠くの方に小さく見えている灯り』ーーそのくらいの希望でいいんじゃねぇか?」
「つづいていくってことですよね」
「そう。つづいかいくってことだよ。もし、アンタのつくる余白に、つづいていくことの希望がみえてきたら、それはひとつの手品と言えるんじゃないか?」 p.135
付箋が貼ってあったところを書き写してみると、『浮きて流るる』で引用された谷崎潤一郎『文章読本』の言葉に近いし、小林大吾氏のうたう『話咲く種をまく男』の心情に近いものを感じるし、京極堂シリーズで「話にならない話を話にするのが小説家の役割」みたいなことが書いてあったことを思い出す。そして、それってつまり僕が物語やあるいはファンタジーに期待するものなのかもしれないと思った。
言葉にできないことを言葉としてどうにか定着させること。どうにもならないことをどうにかすること。そのための、あるいは嘘としての言葉に僕は憧れているのかもしれない。
『酔っ払いは二度お会計する』(田中開、産業情報センター)
新宿ゴールデン街でレモンサワー専門店「OPEN BOOK」、新宿一丁目ホテルK5内の「Bar Ao」を経営する著者が、祖父である作家・田中小実昌との思い出やお酒、旅についてを書いたエッセイ集。
誤植がとにかく目立つが文章自体は不思議と読んでいたくなる癖を持っていて楽しかった。他の本があったら読みたいな。
他の本といえば第二章では田中小実昌の文章と著者の文章が交互に掲載されるのだけれど、小実昌氏が小さかった頃の孫の話をしたその直後に当の孫の文章が載るその構成が見事だった。時間の流れを感じられて。
お祖父さんの本は『何でも見てやろう』しか読んでないし他も読もうかな。
『たやさない つづけるためのマガジン』(hoka books)
2月に尾山台のWARP HOLE BOOKSで買って、僕にしてはめずらしく割とすぐに読む。読みやすそうだし読みたくなる表紙してるし、というかhoka booksもとい烽火書房、嶋田翔伍さんのことはなんとなく気になっているのだよな。ちなみに本書は2巻である。
"vol.1では「肩書き」や「お披露目以外の日々」スポットをあてることで、つづけつづけるための手がかりを探した。今回は、価値について考えることで、細くても長く長く自分の活動をつづけていくための方法について一緒に考えてみたい"p.4
ということで、今回のテーマは価値。それにしても嶋田さん自身が活動を続ける(つづけつづける)ための模索それ自体をZINEにしているのが良い。誠実な感じがする。
インタビューは
菓子屋のな 店主 名主川千恵
小鳥書房 落合加依子
作曲家 高木日向子
株式会社アフリカドッグス 代表 中須俊治
の4名に行われ、最後に自身の文章で終わるという構成。
必ずなぜその人に話を聞いたのかが書かれているので話に入っていきやすく、それでいて、あまり他のメディアで出てこないような、よそ行きでない話が出てくるのがおもしろかった。
作曲家・高木日向子が画家の高島野十郎が描いた『蝋燭』から影響を受けて「L’instant(瞬間)」を作曲していたことを知れたのはよかった。高島野十郎は好きな作家だったので。
アフリカドッグス・中須俊治さんが電子マネー「eumo 」を利用されているのも興味深かった。随分前にスタンダードブックストアのイベントでこのeumo 創始者が登壇されていたので。
最後に、帯文の「頼まれてもいないものに、自分なりの思いを込める。」というフレーズに特に共感したことを書いておく。初期衝動のもと、わざわざ自分でつくること。自分が大切にしていることそのものだよなと気付き直したので。
『Memories』(中山信一)
『たやさない』と一緒にWARP HOLE BOOKSで買う。店主の黒川さんにも薦められた。「カイロプラティックの先生が③まであるんですけどめちゃ面白いので」もちろん口調はこんな感じではないけど大意はこうだった。
イラストレーターでもある著者のエッセイ集だがとにかく収録されている絵と装丁がカワイイ。人間の絵が、昔好きだった無愛想でのんきなスーパーファミコンのゲームを思い出させる。
文章の方は気軽に読める。寝しなに読むのにちょうど良い温度感である。
"絵を描くのに大事なことは、自分の中にある強烈な愛だな、と改めて気付かされた瞬間だった。" p.39
という一文には、そうだよなあ、僕は絵を描かないけれど妙に納得させられた。
著者家で即興で生まれた家訓も良かった。
"一、健康第一
ニ、人に優しく
三、嘘はつかない
四、やるならやる、やらないならやらない
五、感覚を信じて
六、仲間は多めに
七、たらればは無し
八、諦めも大事
九、とは言えベストを
十、まあ頑張ってくれ"
八から十の気の抜け方が非常によろしい。最後、言うことがなくなって「まあ頑張ってくれ」に着地するところなどには愛を感じる。あるいは祈りか。この文章自体はそんな大層な話ではまったくないのだけれど。
『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』(矢野久美子、中公新書)
図書館関係の仕事も少しだけれどしていて、関連の本を読んでいるとどうしても気になるのが公共の概念である。
どいうことかというと、図書館についての本やニュースを読んでいくと複本問題とか民主主義の問題が必ず出てきて、なんか議論が噛み合わないなと思って考えていくと、どうも前提としている社会や世間の概念が食い違っているっぽいなと感じるのである。
とはいえ、自分も別に社会とか世間についてそんなに学んでいるわけでもないので、知っている範囲で自分にとって取っ掛かりの良い言葉が公共だったというわけだ。
そして、公共といえばハンナ・アーレントだ、ということでとりあえず家にあった本書を読むことにしたのだった。
ハンナ・アーレントの人生と思想の概略を追ったのが本書である。僕にとってのハンナ・アーレントはアイヒマン裁判の人であったので『イェルサレムのアイヒマン』についての話(本書第5章Ⅲアイヒマン論争)は特に面白かったがそれ以外にも、ユダヤ人であることへの意識や「悪」についての考え方など興味深いことばかりであった。
"ブルーメンフェルトがある人物にシオニストへの協力を呼びかけたとき、「シオニストに成功の見通しはないだろう」と反論されたことがあった。ブルーメンフェルトは「わたしが成功に関心があるなどと誰が言ったのだ?」と答えたという。考えもせずに勝ち組につこうとする潮流は恥ずべきものだった。"
p.35
→格好良さがすごい。
"「搾取者にたいする強制収用」はプロレタリアートではなく、より強い搾取者に有利な結果をもたらすということである。" p.62
→搾取者の論理に絡めとられないための方法論の話。言葉には気をつけねば。
"「堅固なものを打ち負かそうとする物は、親切である機会を見逃してはならない」" p.65
→老子の一節に対するベンヤミンのコメント。親切もまたひとつの戦いなのだ、と。
"女性たちは、収容後数日間は呆然としていた。しかし、最初のショックが癒えると「身嗜み」に時間をかけるようになってきた。
…略…
アーレントも、環境の醜さに感染しないように、最善を尽くして身なりを整えることを主張していたという。" p.68-69
→環境の醜さに感染する。たしかに環境が心身に及ぼす影響は「感染」と表現するのが適切なように思う。ヘーゲルの生政治を思い出した。
"膨大な建設・運営費用をともない、殺すことだけを自己目的とする絶滅収容所という制度は、あらゆる軍事的必要性に反していたからだ。" p.89
→ナチスの恐ろしさは歴史として知っていたけれど「軍事的必要性に反している」と言われるとその異常性に気付かされる。なるほど。コストに対するリターンが存在しないことをなぜするのか、というのは殺人や死刑とは次元の違うことだ。
"工業的な大量殺戮はまさに「死体の製造」とも形容される事態であった。
…略…
人間による人間の無用化。" p.91
→何も生み出さない死体を製造する意味ってなんだろう。そこに行き着く理由があったのだろうけどどんな異常、あるいは別の通常があったのだろう。
"アーレントにとって最も重要だったのは、人間の無用性をつきつけたガス室やそれを実現させた全体的支配という出来事の「法外さ」と「先例のなさ」を直視すること、そして「政治的思考の概念とカテゴリーを破裂させた」その前代未聞の事態と向き合うことだった。アーレントにとって理解とは、類例や一般原則によって説明することでも、それらが別の形では起こりえなかったかのように重荷に屈することでもなかった。彼女にとって理解とは、現実にたいして前もって考えをめぐらせておくのではなく、「注意深く直面し、抵抗すること」であった。従来使用してきたカテゴリーを当てはめて納得するのではなく、既知のものと起こったことの新奇な点とを区別し、考え抜くことであった。
アーレントは、因果関係の説明といった伝統的方法によっては、先例のない出来事を語ることはできない、と断言する。しかも全体主義という新奇な悪しき出来事は、「けっして起こってはならなかった」ことだった。それが運命といった流れのなかで必然的に起こるべくして起こったことではなく、人間の行為の結果としての出来事だったということを、アーレントは強調する。人間がどうなるかは人間にかかっている。そのためには新しい語り方が必要だと彼女は考えた。「保存したいのではなく、逆に破壊するべきであると感じている事柄について、つまり全体主義について、いかにして歴史的に書くか」という問題だった、とアーレントはいう。" p.105-106
→良すぎて長めに引用してしまった。絶対に起こってはならないことを、今後絶対に起こさないためにどうするべきかということだろうが、じょあそれがどんなものなのか、については『全体主義の起原』を読んでいないのでなんとも言えない。
"帝国主義時代の官僚制支配では、政治や法律や公的決定による統治ではなく、植民地行政や次々と出される法令や役所の匿名による支配が圧倒的になっていった。アーレントは官僚制という「誰でもない者」による支配が個人の判断と責任に与えた影響を検証した。
…略…
膨張が真理であるというそのプロセス崇拝と「誰でもない者」による支配においては、すべてが宿命的・必然的なものと見なされていく。ひとつひとつの行為や判断が無意味なものになるのである。" p.110
→「誰でもない者」は自分自身すらネグレクトしているわけで、このツイートの通りだよなあ、と。こういう人とか組織ってあるよなあ、と。嫌だなあ、と。
"アーレントはバークレーでの講義の最終回で、現代人が生きる条件としての「世界喪失の増大」を、「あいだの枯渇」あるいは「砂漠の増大」と言い換えている。ひとびとの関係性が成立するあいだの世界が失われた砂漠的状況は、本来ならば人びとを苦しめる状況であるのだが、近代心理学が「砂漠」が関係の枯渇にではなく人間自身のなかにあると見なし、世界喪失的生活条件に人間を適応させようとした、とアーレントは見る。アーレントによればそこには、苦しいなかで判断しつつ砂漠を人間的なものに変えようとする力が失われる危険性がある。
もうひとつの危険性は、「砂漠の生に最も適した政治形態」である全体主義運動が展開することである。人と人とのあいだの行為の空間、あるいは共通の世界が失われるなかで、相互に孤立した人間が全体主義運動へと組織化されるというアーレントの従来の分析と連動する議論であった。しかし、アーレントははっきりと、「砂漠」は全体主義社会だけの特徴ではないと論じる。しかも、生きがたくて当然のはずの「砂漠」となった世界で、人びとが受苦を感じるのではなくそれに適応する兆候がある。
ホッファーを「砂漠のなかのオアシス」にたとえたアーレントは、講義では「政治的な条件からは独立して存在する生の領域」を「オアシス」と呼び、次のように語った。「オアシスは政治的な条件からは独立、あるいは大部分独立しているあの生の領域すべてです。失敗に終わったのは、政治、つまり複数で存在するという意味でのわれわれであって、われわれが単独で存在するときにわれわれがおこない制作しうるものではありません。単独で存在するとは、芸術家の隠遁生活や哲学者の孤独な生活、愛情やときには友情において見られる人間同士のそもそも無世界的な関係をさします」" p.136-138
→これってつまり池波正太郎が書いてた「融通」の世界のことではなかろうか。あらためて個人的な、人と人との関係性とその積み重ね、というか縁が無限に横に連なる状況の重要性を説いたということなのかな…この理解で合っているのかな。
とまあ長めに引用して疲れてきたのでここらで止めにしよう。ハイデガーとホッファーとレッシングは読んでみたいと思った。あともちろんアーレントの著作も。気になった言葉は活動、事実の真理、判断。
『安井かずみがいた時代』(島崎今日子、集英社文庫)
芸能関係はちょっと調べたいのよね〜と思い少しずつ買い集めている。『ホントのコイズミさん』出演のためにKindleで買った『小泉今日子はなぜいつも旬なのか』(朝日新聞出版)の文体から溢れ出るオジサン感にイライラしてしまったので警戒しながら読む。よかった。
安井かずみとはどういう人物か? を浮かび上がらせるために周囲の人物にインタビューをしていくという構成がよく。あまり芸能関係に憧れを持っていない僕のような身からすると、安井かずみが夜の街でイキっていたころから結婚して理想の夫婦を演じるようになるところなんて正直何がすごいのか、その感覚がまったく分からないしむしろ虚しさしか感じないのだけれど。
そんな感じで「あれれ?」と思うようなタイミングに吉田拓郎が批判的な立ち位置でインタビューに答えているのが素晴らしく。
とはいえ著者の安井かずみへの愛が迸りつつも抑制の効いた良きノンフィクションであった。
知識としては以下のあたりが気になった。
- 1960年代半ば〜1970年代のスターであること。自立した女性のロールモデル的な?
- あと文化人のサロンになっていた六本木「キャンティ」。もっと若い世代の新宿2丁目「キーヨ」。
- 友人のコシノジュンコ
- 写真家・斉藤亢が一回り下、田中一光・亀倉雄策・粟津清が出入りしていた下落合のシルクスクリーン印刷所、写真家・立木義浩、金子國義、宇野亜喜良は一回り上?
- サガンが安井かずみの4つ上
- キャンティの上の階にある「ベビードール」は日本最初のブティック。キャンティのオーナー川添浩史、ブティックは夫人の川添梶子
- 日本で男性が厨房に入ることがちょっした流行になったのは1970年代に入り、ウィメンズ・ムーブメントが起こって以降 p.238