「本屋がなくなる」という話になると感情的に「それはいけないこと。良くないこと」という結論から先に話すことが多いように思う。そりゃそういう話をする時はたいてい本好きが多い場だから自分が好きな場所がなくなるのは嫌だということは良く分かる。ぼくも本屋が無くなるのは寂しいし無くなって欲しくない。
とはいえ実際問題、本屋は日毎に減っているのであってこの流れはそう簡単に泊まるようには思えない(例によってデータを挙げることはしない。気になる方は出版状況クロニクルを読んで頂きたい)。
それでも無くなって欲しくないと思うぼくはもしかしたら時代に置いていかれるのかもしれないが、足掻くのは自由だろう。そして、どうせ足掻くなら効果的に。流れをひっくり返すようなことをしてみたいじゃないか。
必要なことは「新しいこと」であり「本屋」という概念のアップデートだと思う。そもそも「本屋ってなんだ?」とか「本屋の歴史はどうなっているんだ?」とかそういうことももちろん調べてはいるけれども、いつだって現実は理論の先を行くものだと思うので街に出てみた。キーワードは「あたらしい街の本屋」(まだ、小さいところの中にこそ未来の萌芽があるように思うので大きな本屋は含めないこととする)。
あれ? どこかで聞いたことがあるぞ?
というわけで今日は「あたらしい街の本屋」を掲げるB&Bと同じことをやろうとしながらもまるで方向性が違う天狼院書店について書こうと思う。
「あたらしい街の本屋」 B&B
本サイトの読者ならご存知だろう。下北沢にB&Bという本屋がある。
駅前から少し外れた路地裏にある本屋でここ最近では珍しく異業種から参入した新刊書店として有名である。
B&Bは「あたらしい街の本屋」として営業を開始した。本屋好きとしていろいろな話を聞く中で驚いたのがこのあたらしい「街の本屋」というフレーズに引っかかる人がいたということである。
確かにB&Bはいわゆる「街の本屋」というイメージから外れる部分が多い。まず本の売上だけで成り立ってはいないし店員も中心はさておきインターンがほとんどだ。毎日行われるイベントで集客を行い名前の通りビール(B&Bはbook & beerの略である)を振る舞い、さらに什器を家具として売り糊口をしのいでいる。
とはいえブックディレクターの内沼氏を中心にセレクトされた品揃えには素晴らしいものがあるしイベントも(中には興味の湧かないものもあるが)面白いものがある。開店から2年以上が経ち常連も増えてきたのではないか。
無くなっていく「街の本屋」
ぼくが思うに本屋業界は今までのやり方を守っている暇はないし、ましてや本来は本屋という業態を残したいはずのヘビーユーザーがノスタルジーに浸っている暇はないと思う。
そんな中でB&Bは賛否両論はあれども新規参入のハードルが高い新刊書店をはじめ2年以上続けているわけだ。これは街の本屋として評価して良いことだと思う。あたらしいやり方を確かに提示できているわけだから。
さらに言えば街の本屋は無くなっているのに対して、あたらしい街の本屋を目指すB&Bは今も確かに続いているのだ。それを評価せずに何を評価するのか。
「本は儲かる」 天狼院書店
ここでもうひとつ。2014年はじめに開店した天狼院書店を紹介したい。元書店員が開店したこの本屋。B&Bと違い人通りが多いわけでもない南池袋に開店した。
立地は良くないのだがこの本屋。相当にアツい。
開店当初から様々なイベントを仕掛け最近では福岡天狼院なるものまで企んでいる。
何より店主・三浦氏の情熱が凄まじい。この時代に「本は儲かる」という信念を証明するために自分で責任を持ってはじめるその心意気たるや。
その情熱にほだされたのか。多くの出版業界人や異業種の方が集まってきており。本当に福岡天狼院も実現してくれそうに思う。
文化としての本屋 ビジネスとして本屋
サブカル観光地・下北沢のB&B。あたらしいオタクの聖地・池袋の天狼院書店。
ぼくにはこの2店が「あたらしい本屋」を語る上で好対照を示しているように思える。
つまり、文化として本屋を捉えるB&Bとビジネスとして本屋を捉える天狼院書店である。
今まで紹介してきた中ではどちらもイベントを主体に本や飲食物の売上を伸ばす戦略を取っていて違いがないように思えるかもしれないがこの2店はまったく違う。何が違うかというと属性が違うのだ。
B&Bは下北沢という立地もあって小説や写真集、詩など文化的な要素が強い品揃えだ。毎日のイベントで集客を行いつつ痒いところに手が届く品揃えでリピーターを捉えるその手法は、様々な場所で本のある場所をプロデュースしてきた内沼氏の真骨頂のように思える。良い本(場の魅力)を置いておくためのイベントという考えだ。
対して天狼院書店は完全にビジネス寄りだ。開店当初からビジネス書が多く(定番の文学作品もある。そこは見落とせない魅力だ)、「本というツールを使って豊かな人生を送ろう」というメッセージを感じる。だからなのか写真部や映画部など文化的なサークルも多いが概して意識が高い((笑)ではない!)方が集まるように思う。本の品揃え云々ではなく空間やイベントを含めビジネスとしての本屋を追求しているように思えるのだ。
あたらしい本屋は今のところ成功している
B&Bと天狼院書店。どちらともこの厳しい時代に(しかもハードルの高い新刊書店で!)それなりに成功している本屋だ。まだ一年かそこらでありこれからどうなるか分からないが景気の悪いニュースが多い本屋業界の中で異彩を放っている2店であることは確かである。
だが、残念なことにこの2店。本屋好きの間ではあまり人気がない。もちろんぼくの周囲の話であり一般化はできないが概して「街の本屋と名乗って欲しくない」「意識が高くて自分には合わない」といった意見が強い(ちなみにぼくもその中の一人である…汗)。
袋小路の本屋業界
ぼくが自戒も込めて言いたいのは、それでもこの2店は成功している部類に入るのであり、でもだからこそ我々のこの2店を否定する心持ちをこそ批判したいということである。
なぜなら本屋は確かに袋小路にあるとぼくは思うからだ。可処分時間の奪い合いやネット書店(ほぼAmazon)における送料・通う時間のコストの優位性などなどそんなことは著名な方々が既に語り尽くしているので多くは書かないが本屋にとって不利な状況はゴマンとある。
ぶっちゃけた話、自分も含めてこのご時世に「本屋をやりたい」と考える人間はよほどのバカかどこかネジの外れた人間なのは間違いない。
ノスタルジーでは未来は開けない
そういう人間が感傷と共にノスタルジックに本屋を語るのはとてもよく分かるし自分もときどきしてしまう。
でも、だからこそ、ぼくは「本屋が好き」という感傷を踏まえた上で、生き残る道を探すには「街の本屋」というフレーズを感傷と共に使うことをやめたいと思う。
感傷やノスタルジーは強い感情を生むがそれと同時に思い込みを生む。「自分が考える本屋」以外を認めないという感情的な反応を生むのだ。
あたらしいことをやる上で必要なことは思い込みを捨てることだと思う。今までのやり方や体系をいったん捨てて考える必要がある。ノスタルジーは現状や過去にしか目を向けない。それだけでは未来を開けないのだ。
古い街の本屋からあたらしい街の本屋へ
そう考えたときに「街の本屋」という信念は、もしかしたら邪魔かもしれないと思うのだ。
B&Bや天狼院書店はいわゆる「街の本屋」ではないが街の本屋的機能を果たしているように思う。知的ハブとしての機能だ(ここに「地域の」とつけばまさに街の本屋だ。だから街の本屋「的」とした。また、この2店がどれだけ地元のお客さんを捕まえたかは分からないのでそれは置く)。
とはいえ、2店はあたらしい本屋の在り方ではある。そして、ノスタルジー的な感傷をもって語られるいわゆる街の本屋ではないけれど、確かに続けているし続けようとしている本屋であり、街の本屋たらんとしている本屋なのだ。
だとすれば本屋好きである我々は批判する前になぜそれが可能なのか。どうやればできるのか。他のやり方はないのか。そういったことを彼らに学ぶべきだろう。
古い街の本屋も愛でつつも、あたらしい街の本屋をこそ探しに。
やり方は違うがあたらしいやり方を身をもって示すB&Bと天狼院書店からぼくは目が離せないのだ。