「ふつう」とは一体何なんだろう。
読書をしていると「ふつう」というのがけっこうわからなくなる。世の中で発売されている小説は「ふつう」ではないものが面白いものとされている。既視感のない特別な物語を人は読みたいと願っている。随筆も特別な体験をしている書き手のものを読んでみたい。誰にも知られてない一般人の随筆を読みたいとは思わない。だからどこかで「ふつう」を良くないものと思い込んでしまうようなこともある。「ふつう」は面白くない。「ふつう」の人生では物足りないと。
けれども、一方でこんなことも思う。「ふつう」なんてこの世の中にあるんだろうか。そうするとまたこうも考える。自分はじつは「ふつう」を求めているんではないだろうかとも。特別な生き方は疲れる。平穏で安定した日々を送りたい。「ふつう」が一番。しかし何事も起きないことなんてあるはずもない。波瀾万丈とまではいかなくても、しんどいことはどうしても人生において経験する。「ふつう」って一体何だ? 堂々めぐり。そうしてどんどん迷い込んでしまう。
この往復書簡の作者の二人は、個人経営ではなく、正社員として会社に勤める書店員である。大学内にある本屋で働くながいあつこさんと純粋なチェーン書店に勤務している三浦拓朗さんによる二人の往復書簡。
手紙はながいさんの仕事配分の話から始まる。〈一日の仕事の配分としては現在、書籍と書籍以外との業務の比率は四対六、日によっては二対八になることもあります。〉それに対し、三浦さんは、〈棚を触る時間とそれ以外の時間の割合は二対八。純粋な書店チェーンに勤務しているとはいえ、実はながいさんと似たような状況なんです。〉と返す。
二人の手紙を通して伝わってくるのは、本棚の前で書籍の仕事に専念したいけれども、その業務だけをすることができないことによるモヤモヤした感情である。ながいさんはパソコンの前で一日作業をする一方、三浦さんはアルバイトスタッフの勤務管理やトラブル対応をする。本を売るという仕事以上に、やらなければいけない業務に追われる日々の記録。
それでも二人の文章からは、日々の業務の中の限られた時間の中で、補充注文をしてその一冊が売れることの喜びがひしひしと伝わってくる。一日に売れる冊数が多くない中でも仕入れた本を粘って売る積み重ねが売り上げに繋がった時のうれしさが率直な文章に表れている。
けれども労働は毎日続くから嬉しい気持ちもありながら、モヤモヤ考える日々も続いていく。そんな二人が心の拠り所にしているのが、本屋の労働とはべつの労働外の活動である。そこで一冊の本が紹介される。柿内正午『会社員の哲学』(零貨店アカミミ)である。
〈また、さきの三浦さんのお手紙で「生きるためにと割り切って働いている」という言葉がありましたね。「割り切る」というとネガティブな印象を持たれる感じがしますが、『会社員の哲学』では割り切って働いている自分を認め、「労働の外」の自分の観点からどのように生きていくか、という思想を提示しています。『会社員の哲学』から考えることが最近結構あります。『妙蓮寺 本の市』も「労働の外」の自分での活動です。〉
〈「労働の外」、まさに綴方のお店番ですね。誰もシフトに入るのを強要しない。仕事とも友人とも違う関係性。仕事以外の場。上下の関係だけしか経験したことのない私には新鮮で、溶け込めるか最初は不安でしたが、今度はイベントの進行を務めます。今は仕事から離れた綴方の活動が生活の楽しみです。〉
古本市や店番、読書会(『ののの』(太田靖久、書肆汽水域)といった「労働の外」の活動を行うことで、本と人との出会いを直接実感する楽しさを二人は得る。妙蓮寺という街で。本屋綴方という本屋で。もっと言えば、この本自体が生活綴方出版部のZINEという形で出版されていることによって、活動の広がりが一つの形になっている証左にもなっているのではないだろうか。
ところで、この本を読んでいる間、僕は大学生時代に二年間アルバイトをしていたデパート内の書店を思い出していた。学生アルバイトの自分に文芸書に詳しいからと担当をさせてくれた店長やバイトを飲みに誘ってくれた社員さんには良くしてもらったけれど、本を大好きで書店員をしているという熱意はそこまで感じられなかった。それこそ本書に出てくる「割り切る」というのが言葉や態度に出ていた。
むろん、アルバイトの僕に本音を語ることはなかっただけかもしれないけれど、当時の僕はそう感じていたのだった。だから、僕はこの往復書簡の文章を書く二人が「ふつう」というには、本が好きという気持ちがずっと強くて、読者にそう思わせてくれる時点で「ふつう」ではないですよ、と思わず言ってしまいたくなる。そして、「ふつう」と言うには、この「ふつう」を名乗る書店員二人の往復書簡は、読み物としてとても誠実で、かつ「ふつう」よりずっと面白いのだ。