はい、どうも。
タナカホンヤのタナカです。
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タナカホンヤのあこがれ
縄文土器をみていると、縄文の人びとのモリモリとした生命力を感じる。うねるような土器の形態から紋様までが、宗教的で呪術的な神秘さがあり、奇怪で野蛮な美しさに圧倒される。農耕生活において道具としての土器よりも、こういう原始的な土器が存在していたことがなにより感動する。そこには芸術としての目的や意味という意識がなく、精神的なものからうまれてきたからだろう。
縄文時代の狩猟期は、獲物をもとめて追っかけてつねに移動しながら、不猟のときはただちに飢えを意味するし生命の危機であり、大猟のときは歓喜であふれ祭りになる。自然と人間との、生命のバランスは神秘で、あっけらかんとしたダイナミズムで生きることの純粋な情熱がつたわってくる。
いまぼくにとって祭りといえば、フジロックかもしれない。苗場の山に囲まれ3日間テントしながら歌い踊り、川で遊んだり、何もせず空を眺める。そこには常に音楽が流れている。ちょっとお値段が高いけど、1年に1回ぐらいそんな行事があっても良いと思って、お店をはじめるまではなんだかんだ10年ぐらい遊びにいっていた。
とにかく縄文土器を眺めて、ぼくの血のなかにもその気配がひそんでいると考えるだけで嬉しい。
そんなことを考えてた先日のこと、日付も変わる深夜の歩道で、尾崎豊を熱唱している男ふたりがいた。野蛮で暴力的な声量を聞きながら、尾崎豊について考えてみた。けど、なにも思い浮かばなかった。ぼくにとって尾崎豊とはそういうものなんだと思う。もし彼らが熱唱しているのがフィッシュマンズだったら、たとえば高田渡で生活の柄を熱唱していたら、ぼくも思わず声にだして歌うのだろうか。たぶん声に出さず合わせて歌うぐらいだ。ぼくはそれくらいのつまらない人間だったか。きっとそうだ、もうずいぶん叫ぶなんてことをしていない。もっと野蛮でありたい。
こういうのに遭遇して、いよいよ暖かくなってきたのを実感した。
そして、タナカホンヤの入口はビニールカーテンを外し開放された。これからの季節、この町の音と匂いを肌で感じられる、この場の空気を誰かと共有できるのは嬉しい。
知っている誰かと。知らない誰かと。
この連載は今回で最終回です。BOOKSHOP LOVERさん、読んでくれた皆さまありがとうございました。各方面から読んでいるよと言われて嬉しさと恥ずかしさでいっぱいでした。また機会がありましたらお会いしましょう。ぼくの人生でどれだけの人と出会えるのかわからないけど、できればタナカホンヤにいらっしゃいませーどうぞー
おわり