BOOKSHOP TRAVELLERの移転関連に加えてまあいろいろとあり、読んではいるし感想も書けてはいるのだけれどもアップできていなかった読書メモをまとめてアップ。今回は2023年5月-2023年9月分。5ヶ月で19冊読んで15冊分の読書メモを書けたみたいね。移転が4月だったことを考えるとなんだかんだ読めていたのだなあ。
- 『タイタンの妖女』
- 『本屋閉店開店日記』
- 『会社員の哲学 増補版』
- 『さよならドビュッシー前奏曲 要介護探偵の事件簿』
- 『バイトやめる学校』
- 『哲学するアトリエ』
- 『持続可能な魂の利用』
- 『おいしい生活』
- 『みかんとひよどり』
- 『江戸の味を食べたくなって』
- 『砂漠の教室 イスラエル通信』
- 『日本で最初の喫茶店「ブラジル移民の父」がはじめたカフェーパウリスタ物語』
- 『雑談・オブ・ザ・デッド』
- 『ルポ 筋肉と脂肪 アスリートに訊け』
- 『未知を放つ』
このほかにも読んだけどメモを書けていない本がいくつか。『新百姓001』(一般社団法人新百姓)、『調べる技術: 国会図書館秘伝のレファレンス・チップス』(小林昌樹、皓星社)、『オーグメンテッド・スカイ』(藤井大洋、文藝春秋)、『帝国図書館ーー近代日本の「知」の物語』(長尾宗典、中公新書)である。
とまあそんな感じであるが以下からは読書メモである。
『タイタンの妖女』(カート・ヴォネガット・ジュニア 浅倉久志 訳、ハヤカワ文庫)
2023.6.14水読了。明後日、店で開催される落語会の元ネタとして本書が使われるということで読む。ヴォネガットはSF好きの間では有名だが僕が読むのは2冊目だ。1冊目はたしか『猫のゆりかご』だっけか。読んだのは5年くらい前だ。軽く調べてみたけどブログやらnoteやらに感想を挙げてはいなかったみたい。ボコノン教とアイスナインのことしか覚えていない。
ヴォネガットについて、なぜ今まで読んでいなかったかといえば『猫のゆりかご』を読んだ時にブラックユーモアに乗り切れなかったからだ。読ませるし面白いけど「こういうんじゃないんだよなあ」という感覚を持ってしまった。
個人個人のノリの問題なのだしそもそも作品の良し悪しについて語れるほど読んでいないのでそこは割り引いて欲しいのだけれども、読んでいて恥ずかしくなっちゃうところがあるのよね。
今回の『タイタンの妖女』訳者あとがきに
"とても話上手なおじさんが、とぼけた口調で面白おかしい物語を聞かせてくれます。
…略…
おじさんがもしなにかを信じているとすれば、それは笑いの効力だけです。
…略…
その笑いをつうじて、聞き手の心に、ほんの束の間でもいい、人間どうしのつながり、思いやり、といったものをかきたてられたら、とねがっているーー
そんな作家がカート・ヴォネガットではないでしょうか。" p.457-458
とある。実際、そういう「絶望であるにもかかわらず」といったテイストを常に感じるのだが(にもかかわらず、ということを強調したのは誰だったろうか)、どうもそのふざけ具合がニヒルすぎるというか、合わないところがあるんだよなあ。僕はもうちょっと真面目であって欲しい。あるいは正面から笑わせてほしい。と思っちゃうんだ。
これはSFにブラッドベリから入ったことも大きいのかな。ロマンを前面に押し出すタイプのSF。うーん。でも、最後の一文は最高だった。これは愛だよ。たしかに。
"人びとをいつくしめ、そうすれば全能の神はご自分をいつくしまれる" p.256
"なにが彼らをそんなに幸福にしたかというと、もう他人の弱点につけこむ人間がだれもいなくなったからである。" p.319
"単時点的(パンクチュアル」な意味において」と、ラムファードの声門音的テノールが繭の中から聞こえた。「さようなら」" p.423
"彼は、あのなじみ深い、愛しい音の欠落を聞いたのだ。" p.442
"人生の目的は、どこのだれかがそ!を操っているにしろ、手近にいて愛されるのを待っているだれかを愛することだ、と」 p.445
"だがな、天にいるだれかさんはおまえが気に入っているんだよ」 p.454
『本屋閉店開店日記』(花田菜々子)
蟹ブックス店主の花田菜々子さんと知り合ったのはたしかパン屋の本屋の開店の頃だからもう7年くらい前か。具体的にどこで出会ったかは覚えていないが、その後もHIBIYA COTTAGE(以下コテージ)の開店時に取材依頼をしてくれたりとお世話になった。
その花田さんが独立開業、しかもクラウドファンディングをするとなれば応援せざるを得ない。ということでクラウドファンディングで返礼品として本書は手元にやってきた。
シンプルなデザインながら、色のチョイスといい書名の文字といい、さすがのポップさである。
内容はというと、タイトルの通り、コテージの閉店のことから蟹ブックスオープンまでの経緯を日記形式で綴ったものだ。
読んだのはちょうど祖師ヶ谷大蔵への移転作業をしていた最中なので共感したり、ここはこうすればよかった、と思ったり、人によってそりゃ状況は違うよなと思ったり心が忙しい読書であった。
閉店が決まった後にB&Bに誘われて独立とどちらを選ぶかと言われて、そのこと自体はとても良い話なのだけど逆に独立より安定なんじゃないかと悩んだり
開業資金は『であすす』の印税など執筆業から来ているみたいだけど、
"出会い系の本で一発屋的に当てて手に入れた軍資金は、老後の資金にも少し贅沢な暮らしにもふさわしくない。こういうことにこそ使うべき金だと。"p.20
と友人に相談して思い至ることとか
ホホホ座の山下さんに相談したときに
"3年目からがつらいんだぞ"p.24
と言われるところとかコテージの什器をゴネて譲ってもらえることになったくだり(p.25)とか
本屋Title辻山良雄さんの『本屋はじめました』を立ち読みして
"すごい。ほんとうに今の自分のために書いてあるとしか思えない内容。"
と感じるのは共感しかないし、続けて
"よく文芸作品などに対してこういう表現を使うことがあるけど、そういう意味では辻山さんはこの道を誰かが歩いてくることをほんとうに想定していたのだと思うし"どちらもp.33
というのは、小林大吾の『いまはまだねむるこどもに』を思い起こした。
p.115で
"しかし何だかんだで結局1000万円くらいはかかりそうだ。…略…うーん、金。金がかかる……!!"
と書いてあり「そうなんだよ!!」心の中で叫んだことは言うまでもない。
それに
"人はこうして自分の意思ではなく、他者の介入で良く生きる方へ向かわされるのだろうと思う。"p.151
はBSTを始めてからいつも思っていることだ。
"なんとなく無意識的に「あったかもしれない未来のヴィレッジヴァンガードの姿」を追っているよつな気がする。"p.160
これは高松のソローさんなど初期のビレバンに関わった方は同じようなことを皆言っている気がする。遊べる本屋が世に残したものは多いのだ。
先にも書いたがライターで店主という近しい職業のためか本屋のこともライターのことも勉強になることが多く、でもここまで書いてきた引用以外の部分、友人や恋人、仕事仲間と遊んでいるところにこそ花田さんの本質があるのかもなあと思った。
相当忙しいだろうにAPEXやらゲームやらも友人とやるのは止めないのだもの。自分は疲れたり忙しくなるとアニメを観たりスマホを目的もなく見たりしてすぐに閉じこもる傾向にあるから、羨ましさというか人間性を感じた。その柔らかさが店の雰囲気にも表れているのかもしれない。
本書を読む前に取材に行ったので後付け的な解釈ではあるがそう思った。
『会社員の哲学 増補版』(柿内正午)
6月末ごろに読了。
独立書店界隈にいるとよく目にする書名や著者名というのはやっぱりあるわけで、そのうちの1人が柿内正午さんである。はじめて意識したのは『プルーストを読む生活』(H.A.B)から出版したときだから2021年の初めか。
そのときから「町でいちばんの素人」を名乗っていて、そのブコウスキー好きには堪らないけどそうじゃなくても惹き込まれる言葉選びのセンスに驚かされ、いつか読まねばいけない、と勝手に思っていた。それがついに読み始め、読み終えたのである。結論は「こういう立場、大事!」ということだった。
こういう立場、というのはどういうことかというと、「社会や世界のあり方についてできる限り誠実にプロではないことを自覚しながら自分の実感を通して語る」ということだ。
何か発言をすると、クソリプが付きがちな現代社会において、こういうやり方で発言するというのはとても勇気が要ることであるし、また主戦場をリトルプレスにしているということに強かさをも感じる。
さて、著者のことについてはここら辺で良いとして本書について、である。本書はその名のとおり会社員の哲学が披露されたものである。"無名で、目立たない凡庸な賃労働者の思想"(p.8)である。専門的な訓練を受けた学者や何かしら名を成した立場からではなく、かといって自信をなくした被搾取者でもない。"現代日本においてはむしろ特権的なホワイトカラーの正社員"の1人が考えていることである。
そういうのが知りたかった。
なぜかまだ分からないけれど、色々なことがグズグズになっているこの社会の中で、それでも考えて発言する人、それも哲学や社会学や人類学などの専門家ではない人の思想がとても重要だといま僕は感じていて、さらに、独立して8年ほど経ちもう会社員時代の鬱屈した気持ちや考えを思い出せなくなってしまっているということも本書を読む理由の一つになる。
面白かったのが賃労働者の息苦しさの原因に「自由」を持ってくるところである。
マルクスから引いているようだが、この場合の自由とは「土着のしがらみからの自由」と「職業選択の自由」だ。
"資本を持たず、自身の労働力を切り売りすることでした暮らしていけない個人たちに選択できたことなど、ほとんど、なかっただろう。"p.27
選択肢があるように見えて実際はほぼ選択の余地がない強者から押し付けられた自由だ。だからこそ、僕たちは"素人は素人らしく、無責任に現状への否を突きつける方法や技術を学ぶべき"p.13
と著者は書く。
で、あるならば、素人でありながら賃労働者ではない僕のような人間はどうなのか。
"個人的な活動をこのように企業体の比喩で語ることは危険性もある"p.131
と著者も言っているが、個人事業主の活動を考えるときにどうすればいいのか。小商いとスモールビジネスと、灰色の男の関係性をどうバランスすれば良いのか。そんなことを考えたのだが、これを書いている今日は34℃を超え(昨日は38℃だった)暑過ぎて頭が働かなくなってきたので気になった部分の引用だけに留めておく。休みの日に疲れるのいくない。
"僕はそもそもの選択肢から自分で作りたい、、主体的であるとは、この社会や身体といった制約を受け入れつつも、それでもなお自分のやりたいことを最大限に行い、やりたくないことを最小限に抑えるための創意工夫を思う存分試してみることだ。そんなわがままを言うな、という内なる社会には中指を立て続けたい。
略
潔癖に白か黒かで判断したがる怠惰に対して、いつまでものらくらと煮え切らないでいる肝の据え方がいちばん重要だろう。"p.30
"新自由主義における「個人」とは、それが生産の手段として語られる限り「AI」と言い換えられるものだという気がしている。"p.41
「AI」のような「自己」は、一度「実現」すればあとは楽チンというものではない。流動的で、不確かな状況に応じるように、日々改善や修正が求められている。現在の就職活動における「自己実現」とはこの絶え間ないアップデート業務への参画にほかならない。"p.43
"自己実現。この言葉が意味するのは、社会への流通を容易にする規格化の完了に過ぎない。p.49
"親密圏の外側に働きかけることは内側の安定を脅かすリスクとしか評価されない場合、わざわざ外に働きかけることなど誰もしない。外側への不信に基づく徹底的な不干渉。こういう状況は横暴な統治をするけど側にとって非常に都合がいい。先にも書いたが政府も国も個人の親密圏の外にあるものだからだ。「俺たち」だけに構っていたら、「あいつら」も内輪だけを利するような政策を連発し、結局は「俺たち」を脅かす。それでも「俺たち」はすでに、自分たちの外部に声を届けるやり方を忘れてしまった。
ではどうすればいいだろう? 僕たちは、どこからやり直せばいいだろう?
せめて今よりもましなのを作っていくために個人でできる最大のことな、「知らない人に気前よくすること」なんだと思う。知らない人=外部を、競争相手や加害を加えてくる脅威としてとらえずに、ふつうに人間として見ること、" p.66
"精神的成熟が難しい社会状況となっている。すっぽりと全身的に所属する保育機関が階段状に積み上げられたような形の社会機構が出来上がっていて、成熟の母胎である自由な経験が行われにくくなっているからである。"p.71
"僕たちは分け合ってこそ豊かになれる。知らない誰かに親切にする、速さや安さといった便利を成立させている要件を問い、便利をある程度諦め、わざわざ面倒を引き受ける。よりマシな状況をほんとうに求めるのであれば、そういう面倒の引き受けの必要があるのではないかと思う。便利を相対化し、わがまま放題が許される消費者からの脱却、あるいは消費の脱構築を志向する。"p.87
"ビオスよりもゾーエーを中心に据えた現代政治は、「労働」を「仕事」や「活動」よりと優位に置き、生命維持の観点から見れば余剰であるものを社会化し得ないゴミと見なすようになるだろう。これがアーレントの危機意識であった。
略
このような社会では、僕たちの「あいだ」の余剰は、社会化し得ないゴミである。しかし、僕たち生を生きるに値するものにするのはこうした余剰の豊かさに他ならない。"p.101
"政治とはそもそも、有限化してはいけない、あらゆる多様性や多数性を相手取った調整のことであると定義し直してみる。
略
アンコトローラブルな状況につどつどの調整を加えていくことこそが政治の本質である。"p.103
"ブルシット・ジョブとは、自分の生の虚無から目を逸らし続けることを許し、さらには食いっぱぐれもしないようにしてくれる、とても優しいシステムなのだ。"p.105
"現在社会において、効率化というのは管理の効率化を指している。しかしそれじゃいけない。現場のオペレーションは楽になるけどわ管理は超大変、というのがほんらいは当たり前の姿なのではないだろうか。国家も会社も、管理サイドが楽しようと思うからへんなことになる。"p.107
"会社において部分であることは、規格化の全面的な肯定ではない。規格化の論理を会社の内部にだけ留めておくような節約の技術だ。会社の論理を社会にまで安易に拡張しないこと。規格化は分業の効率化にとって不可欠なものではあるが、複数の異なる他者がバラバラのままになんとかやっていく社会においては全面的に適用してはいけないものなのだ。なぜなら、規格化というのは、純粋なものの称揚や均一化への意志という発想と相性がよすぎて、すぐに全体主義的な状況を呼び寄せてしまうからだ。規格化へのある程度の抵抗とは、不純なものの居場所を作り守ることにほかならない。"p.114
"まじめに読むものでないものをいかに真剣に受け取れるかというところにこそ、僕は賭けたい。"p.123
"要するに厳密な管理という発想のナンセンスは、個人の思考力を想定していない愚かさである。大半の出来事らなし崩しであり、その場その場での個人個人の臨機応変な手当てによって成り立っている。管理が個人の仕事を成立させているのではない。むしろ個人のアドリブによってかろうじて管理というものの対面が保たれているのである。" p.141
これは読みたい本。→浜忠雄『ハイチの栄光と苦難 世界初の黒人共和国の行方』(乃水書房)
『さよならドビュッシー前奏曲 要介護探偵の事件簿』(中山七里、宝島社文庫)
2023.8.19読了。暑過ぎて仕事にならないので昼下がりの店内で。
最近はスマホから離れるためにエンタメ小説を読んでいる。さよならドビュッシーから中山七里は好きなのでちょうど良いやと読み始めた。
昔気質の一本気爺さんにも良いところがある的な、古き良き的な探偵の造形に思うところはあるが同時にマイルドヤンキー文化圏出身の人間としては共感するところもあり複雑な気持ち読みつつ、語り口が当然のように上手いので読んでいて楽しい。
最後の岬洋介が出てくる回はやはり面白かった。お仕事ものもそうだけど、オタクやマニアが関わるミステリーは知識がするっと頭に入ってきて良いんだよな。自分にとってはインタビューしているときのような気持ち良さがある。
『バイトやめる学校』(山下陽光、タバブックス)
2023.9.9読了。モノ・ホーミーさんの展示を店でやった時に、軽くタバブックスさんとも飲んだ。その時にギャラリーでポップアップストアをやるのも面白いと思う、みたいなことを話したら著者のことを教えてくれて、でもタバブックスから出されたまだこの本を読んでいなかったので読むことにした。
面白い。読み始めたときは本屋ライター(当時はそんな風に言ってなかったけど)活動初期に読んだら勇気付けられたろうなーと思ったけど、夏の暑さと忙しさでまったく本が読めなくなってしまって少し間を空けてから後半を読んだら、むしろ活動初期の気持ちを思い出してやる気が出てきた。
そうだよな。好きなことの中で面倒くさいことを引き受けるからはじまったんだよな。本を読むのも本屋に行くのも人と話すのも好きだけど、2010年当時、これから小さい本屋が増えていくだろうとおそらく業界関係者が朧げに思っているだろうも思っていて、だったらそんな本屋に行きまくれば楽しいしもしかしたら仕事になるかもしれないって考えて始めたのが今の活動なんだよな。
大きく稼げるわけじゃないけどきっと楽しく生きていけると思って始めたんだ。その気持ちはいまでも変わらないけどあらためて言語化する気持ちになれたのは本当に良かった。
山下陽光さん、お声がけしたらポップアップストア、やってくれるかな。
『哲学するアトリエ』(長谷川祐輔、経堂アトリエ)
2023.9.12読了。BLACKWELL COFFEEにて。
ナナルイさんの『踊り場』(大東忍)原画展に、本書を個人出版された経堂アトリエの代表の方が来てくれていただいた。こんな素敵な本を自分で作って縁のある方に手渡す、その所作が素晴らしくてまずそれが印象的だった。
内容はというと、哲学研究者の著者が経堂アトリエで何人かのアーティストと過ごしたその記録であった。
哲学とは何なのか? そこからなぜ本書で記録されたような活動を始めたのかの話をしっかり定義付けされた上で話を組み立てているのが読みやすく(とはいえ表現が難しくて読みにくい部分もあったが)、内容もいま自分が考えていることの周辺にあることだったのでおもしろく読めた。
いま考えていること。有り体に言えば生きることのままならなさである。下北沢から祖師ヶ谷大蔵に移転して4ヶ月半、予想もしないことがたくさん起こった。それは築50年くらいの建物についてのこともあれば売上のことイベントのこと、さらにはライター活動についてもたくさんあった。
その度ごとにどうにかしてやっていく。というかやらなければ生き残れない。でも楽しくなければやっている意味がない。というところで、良さそうな均衡点を見つけて行動していく。そういうことって言葉にするとどういうことなんだろう。言葉にすること自体が行動の精度を落とすこともあるかもしれないので難しいのだけれどもそれでもライターの端くれとして言葉にしていきたいという、そういう欲求があるのだ。
本書の話に戻ると、著者が"美学=もっとも判別力のある批判的概念を鍛えるためのアトリエ"とリオタール(この思想家のことを僕は知らないのだけれど)の言葉を冒頭で紹介しているが、"判別力のある"ということがそのままいま僕が欲しいことに当てはまるわけである。考える精度の話話である。
と、ここまで書いてきて疲れたので本稿は本書からの引用だけして終えることにする。続きはまたどこかで。
"わたしは時間をかけてアーティストと関わるなかで、このような「制作に影響を及ぼしているが表面には出て来ない言葉」をなんらかのかたちで救うことが、哲学が担いうるひとつの責務なのではないかと考えるようになった。" p.12
"対価との交換ではなく無為に仕入れられたものが、タイミングよく来場してくれた他の観客に振るまわれる、といった具合なのだ。p.22
"ギャラリーによってさまざな違いはあるだろうが、今日アーティストが作品を自前で展示しようとする場合、状況は厳しい。レンタル料、展示期間、作品が売れた際の取り分など、細かい単位で厳密に決まっていることが多いのではないだろうか。もちろん経済的な対価を前提としない催しが開催されることなど考えにくい。そのようなギャラリーの状況下で、庭でねぎが育ったという事情が先行してパーティが発生したり、お菓子を食べながら数時間話し込むということが可能な展示空間は貴重だと思う。"p.24
"「自分とは異なる生活のスケール」"p.44
"特に意味や価値が確定されていない領域を作り出しその方向性に向かおうとする時、ひとは必然的に遊戯的にならざるを得ないのではないだろうか。遊びや余白というのは、既存のジャンルや基準に回収されないということであり、そこに意味や輪郭が立ち上がるまで、つかみどころのない現実と付き合い続けるということではなかっただろうか。"p.64
"哲学対話は…略…歴史的な哲学者のテクストではなく、発話者個人の言葉に宿る、固有なテクスチュア(きめ」が救い出されることこそが目指される。"p.77
"哲学が生きることそのものと密接に結びついていることを象徴している。生きることは常に不完全で、可塑的である。物語を仮構するのではない、人間の生そのものの記録とは、一回性に満ちた偶然的なプロセスを記録することに他ならない。"
そのほか、派生して気になったこと。
・コンテンポラリーダンス
・自然状態
『持続可能な魂の利用』(松田青子、中公文庫)
2023.8.25読了。店へ向かう電車の中にて。
発売当初からタイトルが気になっていて、文庫化されたというのもあるし、帯の「だから、わたしたち、つながって、やってやりましょう」というのも最高であったので買った。三鷹のユニテ。
"「おじさん」から少女たちが見えなくなった当初は、確かに、少しは騒ぎになった。"
という書き出しから始まるのでどんなSFなのかとはじめは驚いたのだが、本編は現実の話である。女性を虐げる構造の中で無意識におじさんに傷付けられた女性たちの話だ。
僕は正直フェミニズムというものをあまり知らない。いま僕が生きているこの日本社会が男性優位の構造で、あまりにそれが当たり前すぎて言葉の端々に(おそらく自分も含めて)女性を下位に見ることがあるということは理解しているし、つまりは構造に加担しているわけで、構造の中に含まれている以上、自分も当事者のひとりであることもわかる。
そして、構造の問題であり、それを変えたいと望むのであれば、構造における受益者は抵抗することは当然であるし、となれば戦いになることは避けられない。
とはいえ、ひと口に戦いと言ってもいろいろな戦略・戦術・作戦があるわけで何も真正面からバチバチとやりあうだけが戦いではないと思っている。
ところで、僕は当たり前という言葉が嫌いである。当たり前、ということは自分の立場にも力に行動にも無自覚的であるというわけで、無自覚であるならばそこに変化は望めない。むしろ変化を望む者に対して攻撃的でありすらする。だが現実は常に変わる。変わり続けている。変わる現実に対応できなければ生き残ることは難しい。ましてや楽しく生き残ることなど……と僕は思うので変化がないものとする、当たり前という言葉が僕は嫌いなのである。
(そうは言っても無限の状況変化に人は耐えられないとも思うので変われば良いというものでないが。家とか国家とかなんのためにあるのかという話)
何が言いたいかというと、フェミニズムについて僕は知らないことばかりだが、人手不足やら生産性やら言うのであれば女性を下位に見ることはありえないとも思うのである。
と、理屈に寄せて書いてみたが、そもそも目の前の人とフラットにしか話せない僕としては、フラットでないことが当たり前という感覚に対する忌避感が強い。
さて、本書の話に戻るが、本書は復讐の話でもある。虐げられた者がやり返しその構造を無化する話である。現実ではそう上手く事は運ばないがだからこそのファンタジーでもある。
現状の構造に憤りを感じる人ならば読んでスカッとする事は間違い無いだろう。
以下、印象に残った箇所の引用。
"店員と客とを上下に分断する過剰な接客ら、どちらにとっても不幸せに感じられた。何か大切なものが失われているように思えた。" p.35
"この黒魔術みたいな踊りで、もしかしたら、普段彼女たちを操っている男たちを殺せるんじゃないか、このダンスでいつか本当に殺すんじゃないか、と信じられるほどの気迫を感じるからだ。そこには希望があった、確かな。" p.47
"自分はもっと欲しい。" p.63
"まるごとブルーベリーがぼこぼこ入ったアイスキャンディーの箱に白羽の矢を立て、敬子はレジの列に並んだ。生きようとしている人たちの列に。この列に並んでいる人たちは、自分も含めて、えらいのだ。" p.80
"「毎日がレジスタンス」"p.112
"魂は生きていると減る。だから私たちは、魂を持続させて、長持ちさせて生きていかなくてはいけない。そのために趣味や推しをつくるのだ。" p.124
"おっさん、マジかよ。"p.158
"社会に不満を抱えた人々は、ドブネズミみたいに美しくなりたいと願い、闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろうと嘆き、盗んだバイクで走り出しました。"p.205
"「わたしたちは革命について歌ったのだから、革命を歌ったのだから、革命をしなければならない」という彼女たちの声が聞こえるようです。"p.208
"彼女たちを見ていると、かわいいは強い、かっこいいは強い、どんなベクトルであろうと、出し切ったものは強いのだと、否応なしに理解できました。"p.226
"確かに、なんの裏もなく、普通にこうだったとしたら、本当に最悪な国でしかなかっただろう。"p.241
"「女の子が世界を革命する話です」"p.247
"だから、わたしたち、つながって、やってやりましょう"p.257
『おいしい生活』(平松洋子、新潮文庫)
2023.9.26ベッドで読了。どこで買ったかはもう忘れた。
平松洋子さんの文章は本当に好きで、何が良いかって距離感が良いのだ。漢字とひらがなとオノマトペのバランスというか。それが取材と経験に裏打ちされているからもうなんというか、上品ってこういうことを言うんだろうなって気持ちになる。
今回は「うちの「おいしい」」で平松家の食卓のことを、「わたしの調味料」で調味料についてのこだわりを、「「おいしい」を探して」でいろいろなお店の話をしてくれるというてんこ盛りの内容である。
利用したくなる、使いたくなる、行きたくなる、そんな食材店、調味料、飲食店ばかりであった。
23pの「水は買うものではなく」では鉄瓶で白湯をつくりたくなったし、35pの「栗きんとんで一服」では美味しいお茶が飲みたくなった。59pの「都会のムラへようこそ」では最近西荻窪行けてないなあなんて思ったり、88pの「黒七味」は手元に欲しくなった。
100pの醤油も、121pの味噌も、136pの鶏スープも。
174pの「でっこじかっこび そばの旅」に、183pの「進化する焼き鳥」、198pの「幻のきのこを探して」、229pの「豚足マイラブ」や246p「「鳥榮」その世界」。
実はここ1週間ほど、春の移転と夏の暑さで溜まった疲れが出たのか寝込んでしまっていて、昨日の夜あたりからようやく物事を前向きに考えられるようになってきたのだけれども、そんな余裕を失った体調の中で何のために生きているのかを思い出させてくれるような、気心の知れた仲の良い伯母さんに話を聞いてもらったような、そんな読書だった。
それにしてもバードランドと丸栄は行ってみたいなあ。
『みかんとひよどり』(近藤史恵、角川文庫)
2023.9.27読了。家の風呂で。買ったのはHMV & BOOKS SHIBUYAの取材時である。
近藤史恵さんのことは「ビストロ・パ・マル」シリーズで知った。料理の描写がとても美味しそうで、そこに抑制の効いた登場人物のキャラ造形が乗っかって、安心して読めるお仕事ミステリものだった。
今回の舞台は同じフレンチレストランではあるがジビエがテーマで、そこの点が自分の興味ど真ん中なので楽しく読み終えたのだった。
ジビエをテーマにすると必ず、狩猟と、生命をいただくことについての言及が必ずあるのだが、その部分についてしっかり描きながらも、やはり著者は食の描写がしたいのだということが分かり、食べることへの誠実さみたいなことが感じられてそれも良かった。
久しぶりにのんびりとした休日を過ごせたのが嬉しい読書だった。
"悪いが、俺はこれ以上、人生を複雑にしたくない。" p.80
→大高の姿勢がぎゅっと詰まったセリフである。とかく複雑になりがちな世界でにおいて、スパッとした言い様は好ましい。
"つまり、こういう事情で金がいる。"p.88
→大高さん、ハードボイルド!かっこいい!
"風野は風野て頑張ったから、今の立場を手に入れた。ぼくは自分のやり方を探すだけだ。"p.171
→シンプルが良いよね。シンプルが。
"自分の環境で最善を尽くすのが大人なのだ。"p.214
→当たり前のことを登場人物に言わせる。物語の力で説得力が生まれる。こういうことだよなあ。
"ただ、ここに積み重ねられた死を無視することはできない。"p.259
→食べる事は殺す事。
『江戸の味を食べたくなって』(池波正太郎、新潮文庫)
2023.9.23読了。寝込んでいたベッドの中で。買ったのは確かCITY LIGHT BOOKかな。
池波正太郎は何冊か読んできたけど、この人はぼやき芸の人なんだなあとあらためて思うような一冊であった。
第一部は完全に無先は良かっただし、第二部も若いものはこれだからってなもんで普段の僕なら倫理的にアウトで読めなくなりそうなものなのだけれども、それでも読みたくなるし浸っていたくなるのは食の表現が本当に美味しそうだからだしボヤキにも品があるように感じるからなのだろう。
"小鍋だてのよいところは、何でも簡単に、手ぎわよく、おいしく食べられることだ。そのかわり、食べるほうは一人か二人。三人ともな?と気忙しい。"p.24
→一人か二人で突き合う中庭の小鍋立てってもうこんな贅沢ないよなあと現代人の僕は思うのである。
"おもわず鯛に向かって
「ごめんなさいよ」
と、いいたくなる。"p.38
→人間であるなあ。良くも悪くも人間であるなあ。動物に近しいところに好感が持てる。
"(敗戦の日から、まだ半月もたっていないのに、氷水を売る店が出ている……)
このことだった。
敗戦のショックというよりも
(これから、どうやって生きて行ったらいいものか……?)
と、おもい迷っていた私が、このとき、はじめて明るい気分になれたのだった。" p.72
→人間の生きていく力を感じさせるエピソードが良い。
"「柚子だけは贅沢をさせてくれ」" p.98
→気持ち分かるなあ。そういうの大切にしないとなあ。
『砂漠の教室 イスラエル通信』(藤本和子、河出書房)
2023.7.31読了。『ブルースなんてただの歌』がとても良かったので藤本和子さんの本は読むことにしている。何が良かったかという、聞き書きの、その再現の仕方であって、簡単に書くと「〜でしょうが」という語尾なんだけども多分本当に良かったと思ってる部分はそこではなくて、聞き書きの(翻訳の?)書き方全体の良さみたいなものがこの語尾に集約されているように僕は感じているように思っているのだろうとは思う。
前置きが長くなった。何はともあれそんな感じで著者のことが気になって本書を読み始めたわけだが、今回は著者の体験を書き記したものとなり、ということは『ブルース〜』とは違う文体になるのだけれどもこれはこれでやっぱり良かったのだった。
なんだろう。文章の切り方が妙に心地よいんだよな。それに内容も良い。日本人と他者との関係性について。いつも自分が考えていることをより深く、違う角度から言い当てられているようでとても興味深かった。
その考えていること、というのはコミュニケーションについてである。僕はこの言葉を他者と他者がその存在を認め合った上で合意に至るための手続きだと考えている。前提は他者の存在で、他者というのは違う存在だということである。だから、どの部分が近い感じ方で、どこが理解できる考え方で、受け入れ難い行動は何なのかを擦り合わせた上で、居心地の良い距離感を探りながら言葉を放り合う。コミュニケーションはそういうものだと思っている。
ところが、である。日本人、というほど僕は日本人のことを知らないが日本的な組織や空気、というものはどうも他者の存在が希薄なように思うのである。
Aという出来事に出会ったらA'と感じるのが当たり前、と考える人が多いように思うのだ。世の中の息苦しさ、という表現があるが僕はその一端は確実にこのコミュニケーションについての考え方にあると思う。
そこで本書である。本書は著者がヘブライ語を習いにイスラエルの語学学校に行ったときの話と、卒業後にイスラエルで聞き書きをした話、そしてなぜ著者がヘブライ語を習うことになったのかについての3部構成になっている。
日本にいるとヘブライ語について学ぶことはほとんどなく、だからそこで起きることは違うことばかりなのであるが、違うことを日本人である自分の世界に寄り添わせて語るのではなく、違うことを違うままにどう描くのか、ということが本書の主題であるように感じる。それは日本人であること以上に、日本語であることに対しても意識的であるを意味する。
"日本語のもつ固有の意味合いに足をすくわれたくない、あるいはよりかからずに、他者を語ることができるかどうか。" p.187
出会った人々について、彼・彼女の属する世界と価値観についてどのように語り得るのか。
自分は自分でしかなくだから自分以外の言葉を持てないしそれで良い、と思っている僕のような人間からしたら途方もない試みのように思えて、だから憧れの気持ちを持ってしまう。そんな読書体験だった。
それにしても、そうか、だから僕は旅に憧れているのか。
"Do your own thingsというせりふを、あまりにこのごろアメリカ人がいうので気持が悪いくらいた。価値判断をやめて自由を認めあおう、という表現には、大義名分すら信用できないぞという発見があったのだろうということを理解したうえでも、なお一種のよどんだ混乱が感じられる。" p.19
"ヨーロッパが文明のモデルであり、究極的な規範だという幻想と、六百万のユダヤ人(あるいはその数をはるかに上回る市民)を虐殺したヨーロッパ、宿酔いの朝のように、ユダヤ人をその口から悪臭とともに吐き出したヨーロッパとのあいだに、この人たちはどのような折り合いをつけるのか。" p.29
"「ベルリンが世界中で一番すばらしい」というドイツ娘や、「休みがあったらパリへもどって美容院へゆくつもりだったのに」というパリ娘のくったくのなさ、完全にブルジョワ的な甘やかされた生活を見ていると、それこそヨーロッパの頽廃そのものを見ている思いさけするが、それねもなお、彼女たちのくったくのない美しい顔の向うに、わたしは歴史を見る、と思う。" p.37
"これは五徳である。これはたしかに五徳である。でもなぜ、ネゲブの砂漠のベドウィンがあたしたちと同じ五徳を使う?" p.46
"女たちは気性の烈しい、めまぐるしく変化する温順ではない自然からその心を守るために、頭から爪先まで黒く重い布で覆って、みずからの内なる世界を包みこんでしまうのではないか。狂ったような廼を眺めているうちち、自分も狂ってしまうかもしれないではないか。" p.58
"アブラハム・へシェルは「安息日」を時間の城にたとえた。ユダヤ人は神殿ももたず、、礼拝のためだけの教会というものももたず、偶像を置く城ももたない。彼らは時間の中に城を構築する、という。空間に聖域を設けるかわりに、時間に聖域を設けると。時間は構造を与えられ、識別され、区別される。時間は実体となり、ユダヤ人はある一つの構造をもつ時間から、異なる構造をもつ時間へ歩み入る。そこを立ち去るときがくれば立ち去るが、彼らはそこをふたたび訪れることができることを知っている。" p62
"いいことじゃないの、とわたしは声に出さずにいった。
いいことじゃないの、子供たちがお臍なんか出したまま、あんなに大きな声で笑う声が部屋じゅうに、家じゅうの響くなんて、とてもいいことじゃないの。" p.83
"中東のあらゆる地域で、客を厚くもてなすことは、厳格に守られるべき義務とされている。「自分が飢えようとも、客に食物を与えよ」とか「おまえの家の門に立つ他人の姿を見て扉を閉めることはならぬ」とか、どこいへっても聞かれる言葉だという。"p.130
p.160のイスラエル・スケッチⅡ「知らない指」
"そのことを、当然だわ、などといわずに、わたしはなんとか適切に受けとめたいと思う。自分たちには自分たちの生きかたがあるが、他者のそれも尊重することはできるという態度のあらわれとして。"p.182
"それは、なんとかイスラエルならイスラエルを、その自らの論理において理解することができるか、という試験に関わることだからである。日本語のもつ固有の意味合いに足をすくわれたくない、あるいはよりかからずに、他者を語ることができるかどうか。"p.187
"他者に正当なる顔を与えること。…略…わたしたちの思惟世界から一歩も出ることなく、わたしたちの民族語がもち合わせる属性をベタベタと他者の歴史にはりつけることですませるという、いつめのやりかただ。あたかも他者はこちらの思弁の便利のためにあるといわんばかりに。"p.190
"アメリカ生まれのユダヤ人の女性作家シンシア・オージックは。「言語は一定の観念を表現することはできふが、あらゆる観念を表現できるわけではない。わたしが英語で書いたこの物語(『横領者』)は、もともと英語という容器には入れることのできない世界であった。それはべつの世界に属することがらだった」と書いたが…略…いま、世界は「普遍」もっとも重大な価値と考えよとあらゆる者に迫るので、こういう発言はいつも敵意をもって迎えられる。"p.195
"特殊性にこだわり、そこに沈んでゆくことで固い具体性を手に入れたいが、その具体性が孤立させられ個におしこめられてしまうだけではつまらないと感じるのだ。" p.196
"自分の平和への願いを確認するために、他者の死を利用するのか、わたしたちは? すでに殺され傷つけられた無数の肉体を前にしてわ感覚をしびれさせてきまっているわたしたち、そらがわたしたちの文脈である。それを超える道を見つけ出さないかぎり、百万の、千万の写真パネルも無駄である。 p.202
"ある民族の共同体の現実を、そのものの正当な文脈においてとらえることができないとしたら、それはきっとわたしたちを打つなにかとなってはね返ってくるだろう。わたしはグロテスクな文章といったが、それは他者の歴史を平然と図式で切り裂くあつかましさのことをいった。明快でないものを記号化して、それを指板の道具に利用することをいった。そういうことを他に対してしながらも、自らの歴史だけは、自らの現実だけは正当な文脈においてとらえることができるいう保証はあるのだろうか。自らに対してだって、グロテスクになりうるのではないか。"p.240
『日本で最初の喫茶店「ブラジル移民の父」がはじめたカフェーパウリスタ物語』(長谷川泰三、文園社)
2023.9.18読了。寝る前に。
銀座に有名な喫茶店は数あるけれども僕がよく行くのはパウリスタである。なぜかと言われると他と比べたわけではないから困るのだが、あえて書くのならばいかにも純喫茶らしいメニューと設備とサービスとが気に入ったのだと思う。
何度目かに連れ合いと訪れた時に、「日本で最初の喫茶店」というフレーズに驚いて思わず買ってしまったのが本書だ。
日本での喫茶文化がブラジル移民事業と密接な関わりがあったことや、往時には神戸や戎橋など何店もあったことなど、そして良かったのが文士たちが集っていた記録が載っていることだ。
寝る前にこういう雑学的な記録的な評伝的なものを読むのが最近好きなのだけれども、やはり時勢として右肩上がりな状況の人々というのは気持ちが良いなと思う。まさにその逆である現在日本と比べると、なるほどこういうのに憧れ惹かれて目が曇っていくのかもなあとも思うのだった。何とは言わないけど。
"大正初期の銀座には絵画があり、詩があり、夢があり、ロマンスがあった。"p.52
"大正二年、カフェーパウリスタは旧店を改築、三階建ての白亜で瀟洒な建物に生まれ変わった。…略…その様式はパリの高名な珈琲店「カフェー・プロコプ」を模し、これに欧米風を加味した画期的なスタイルで、特に二階に設けられた女性専用の婦人室(レディスルーム)は洋式の建物に数寄屋造りを配した和洋折衷の調和が保たれ、美しい階調が発する見事な部屋であった。生花がふんだんに飾られた婦人室は、日本のリベラリズムの発展に大きな影響を与えることになる。" p.53
"大正四年の広告は、「鬼の如く黒く 鯉の如く甘く 地獄の如き熱き コーヒ」のキャッチフレーズを謳い、珈琲は活動家、読書家、運動家といった当時の先進的な人々にもっとも適した飲料であると宣伝した。" p75
"時事新報に原稿を届けにきた知識人たちは、行きか帰りかにパウリスタに寄り、また待ち合わせ場所として利用した。いわば、銀座店は時事新報社の「会議室」としても機能していたのである。" p.99
"このような学術講座が大正初期に道頓堀のカフェーパウリスタで開催されていた事実は、今日のカルチャーセンターで公開されている教養講座の先駆をなす例といってもいいだろう。" p.116
"そこでパウリスタの珈琲缶とこの五十銭本一冊とを買い求めて帰路を急ぐときの心喜びというものは大したものである。太陽は常にわれらの上に明るく、新しい世はわれらの手でとまではいかないしても、いっぱし新時代の知識人みたいに気障っぽ顔つきをして、低俗どもを見下すような気もちを快しとした" p.169 奥野信太郎『酒場今昔記』から
"彼女たちが目指していたのは「私」の実現であり、男性とは異なる価値観と生き方を持つことであった、…略…与謝野晶子が自作の詩の中で「一人称にてのみもの書かばや」日本の女性たちを叱咤し、女性たちの覚醒をうながしたのはこのためである。" p.175
"日本の女性解放運動や自由主義は、カフェーパウリスタの婦人室から誕生したといってもいい。
なお、現在も銀座で営業中の喫茶店「カフェーパウリスタ」では、ブルーのストッキングを履いた女性客は店員にその旨を伝えると、珈琲代が無料になるというサービスを実施している。" p.183
“〈僕は初期のパウリスタのやうなカフェーが一番好きだ。つまり、うまい珈琲とうまいドーナツと、幾時間でも腰かけて居られる椅子と卓子、それだけでたくさんである。" p.207
"昭和五十三年、ジョン・レノン(一九四〇-一九八〇)と夫人のオノ・ヨーコ(1933-」な、星と女王の商標が輝く扉を開けてカフェーパウリスタ銀座店に入ってきた。" p.215
"喫茶店としてのカフェーパウリスタは現在、親会社日東珈琲株式会社の子会社となり、銀座店は八丁目長崎放送ビルの一階で盛業中である。" p.233-234
"大正コーヒー店の創立者、柴田文次は若い頃、「銀座パウリスタで働いたのがコーヒー業界に入る動機であった」という。同店は現在、キーコーヒー株式会社となり、" p.245
『雑談・オブ・ザ・デッド』(柿内正午+Ryota、アカミミ零貨店)
『会社員の哲学増補版』を読み終えたのが6月末だからこれを読み終えたのは7月中かな。おそらく暑過ぎてウダウダしていた時期なので読了の時期をメモできていない。今年の夏は暑かったなあ。
読み始めたのは『会社員の哲学 増補版』が面白かったからで、さらに店に柿内さんが来てくれたこともある。単純なようでそういうことあると読む気持ちが出てくることもあるのよね。ちなみにRyotaさんのことは知らないしゾンビ映画もほとんど観たことがない。『バイオハザード1』くらいだ。
それでも話としては結構楽しめた。何かと俯瞰したくなる柿内さんと聞き手としてのRyotaさんの掛け合いが良く。それにゾンビ映画というフォーマットがしっかりしているからこそ色々な料理の仕方が成り立つジャンルを題材にすると雑談はここまで深く広くなるのか、と読みながらお喋りの真髄みたいなことを考えてみたりしたのだった。お喋りのテーマって大事よね当たり前だけど。
『セーラーゾンビ』と音楽の刹那性と生きる力、『スーサイド・スクワッド』『CURED』か死の軽さ、死の管理、イリイチの話に飛ぶところ、『ゾンビーズ』から"健全な社会においては建前が機能していればそれでよくって"という言葉などなど夜中に集まって話す才能の無駄遣い(まあこれは本になっているしそもそも無駄ってなんだよという話はあるにせよ)的な話って最高だよなと思ったのだった。
最後に、あとがきで柿内正午さんが書いた"あらゆる探究は、もう正直結論が出たな、と勘違いしてからが本番なのだ"は至言だと思う。
『ルポ 筋肉と脂肪 アスリートに訊け』(平松洋子、新潮社)
2023.7.26読了。西荻といえば今野書店、今野書店といえば平松洋子さんである。しかも普段は食のエッセイを書かれている同氏が「筋肉と脂肪」をテーマに書くとか、日頃から体力不足に悩まされている僕などからするとこれはもう読むしかない一冊なのである。
とはいえこれを書いているのは11.24で読み終わったのは半年も前のことなので覚えていることは少ないが、とにかく覚えているのは平松洋子さんの凄さだった。
テーマをアスリートそのものに絞るのではなく筋肉と脂肪にすることによって、自身の食のフィールドと重ねつつ、インタビュイーもこのテーマだからこそアスリートだけでなく栄養士などアスリートを支えるメンバーもクローズアップする。
考えてみれば「食べているものでわたしたちはできている」わけであり、であればアスリートが食べるものにコダワリというか効率性というか専門性を求めるのは当然なのかもしれない。
インタビュイーは相撲力士、プロレスラー、サプリメント開発者、体脂肪計開発者、自身の腸内環境を調べたルポ、栄養士、料理人と進み、女性アスリートからジェンダーの問題にも切り込んでいく。
取材をするときは取材先の情報をある程度さらってから行くものだが(場合によってはその強弱はあれど)、著者の語り口はその前提部分を地の文に組み込むことによってまるで一緒に取材しに行っているような気分にさせるというところがいつも素晴らしく感じる。こういう文章を書いてみたいものである。
というわけで細かいところは覚えていないので全体的に感じたことを書いたわけだが、あとは細かく貼った付箋の部分でさらに気になった箇所を引用していこう。
"筋繊維の外側にはサテライト細胞があり、トレーニングによってサテライト細胞が分裂・融合し、あらたな筋繊維をつくる。トレーニングをいったんやめても、つねに筋繊維の外側に保持されているサテライト細胞によって、「マッスルメモリー」が発動されるのだ。" p.26
"日本独特の食文化から生まれたちゃんこ鍋は、栄養バランスの整う健康食として、アスリートを中心に評価され始めている。"p.37
"日本よりもサプリメントを摂取するアスリートが多い欧米では、近年、"Real food not nutrients"という考え方が見直されています。これは、食べものには、まだ解明されていない成分が含まれており、それらの成分が相互に作用して身体の中で有効なはたらきを発揮するため、できふだけ自然な食べものから栄養を摂ろういう考えに基づくものです。" p.44
"創業者の思想を完全否定して、まったく新しい思想を提唱する。
棚橋弘至は思想家であり、革命家であり、煽動者であり、それゆえち孤独だった。
(『2011年の棚橋弘至と中邑真輔』文藝春秋)"p.89
→読みたくなったな。
"「個人差はありますが、筋肉は簡単にはつかないものです。一年単位で薄皮を一枚ずつ重ねるようにしてついてゆくのが筋肉ですから、早く結果を求めず、がんばり過ぎないことが大切です。…略…ですから、ごく当たり前のことを継続するのが、着実に結果を出すためには意外に有効です。"p.151
"『石井直方の筋肉の科学』によれば、筋肉が強く太くな?要因は「メカニカルストレス」「代謝環境」「酸素環境」「ホルモン・成長因子」「筋繊維の損傷・再生」などが複雑に絡み合う。"p.165
"「メンタルがネガティブな方向に行きはじめたら、すぐジムに行って筋トレです。何かが間違ってるぞと思ったら、いったん仕事を打ち切ってジムに向かいます」" p.166
"背中や肩甲骨まわりの筋肉を動かせるようになると、子どもの頃からのひどい肩凝りが嘘のように消えたし、『俺の僧帽筋はここかな』と動かすのはとても楽しい試行錯誤です。" p.168
"身体と菌の結びつきははっきり解明できていないからわからないとしか言いようがない。腸内環境を整えた人のほうが健康的な人生を送れたというデータも、どこにもありません。" p.210
"三ヶ月後にどうありたいかを考えれば、いまの食事の仕方はおのずと変わってくると気づかされ、初めて本格的に食事改善に取り組みました。" p.225
"JFA栄養ガイドラインは、医学委員会の見解に基づいた懇切丁寧な内容で、公式ホームページでも広く公開されてだれでも読むことができる。" p.260
"『専門家である前にひとでありなさい』" p.275
"極端にいえば、トレーニングをしていれば筋肉はつく。でも、目標に達するためには、トレーニングだけではスピードが遅いんです。" p.277
"アスリートもまた弱さを併せ持つ人間なのだから、「根性」「我慢」によって心身のダメージがもたらされる場合があるのではないか。" p.298
『未知を放つ』(しいねはるか、地下BOOKS)
2023.6.29読了。
hanadagumiさんが勧めていたので読む。いわゆるリトルプレスで出版元は『クソみたいな世界を生き抜くためのパンク的読書』の地下BOOKSである。著者はバンド活動もしつつ整体の仕事もしつつという僕からすると珍しい活動幅の人である。
話はコンプレックスと思考のクセの話から始まる。ヤスパースの言葉を手掛かりにしながら婚活をしたら愛について考えてみたり。父親の介護やら大家さんのお爺さんお婆さんとの話やら。
少しずつ色々な人との出会いややり取りからコンプレックスと徐々に向き合ってやり方を調整して、生きやすくなるまでの過程が描かれている。
タイミング的に、いまは自分の内面、というよりは外部環境(要は経営)をどう生き抜くかみたいなことが自分の中で強くなり過ぎていて、本書のようなある種、赤裸々な文章からは距離を置いてしまうので、どうも読んでいて、もどかしさを感じてしまった。言い直すと良い言葉もいくつかあったけど、自意識との距離の取り方みたいなものが苦手と感じてしまった。
とはいえ、赤裸々な文章は自分の内面を言語化できている点でやはりすごいと思うので、最後まで読めたのはそこへのリスペクトがあったからだと思う。