こんにちは。文学堂美容室retri生田目です。
春が近くなってきました。寒い日と暖かい日が交互に繰り返したり、梅の花が咲いていたりと、目に見えて季節が変わってきているなと実感しています。
その一方で、桜の蕾が膨らんできていることのように、偶然見つけたり注意しないと気づかないちょっとした“季節のしるし“みたいなものもあって、土の下や植物の内側で、なんとなく動いているな、という感じがする三月ですね。
桜の蕾が開く季節ということもあり、個人的にこの時期はいろいろなことに対して「開く」ということが意識されるような気がしていて、桜に限らず、「開く」というのはワクワクとドキドキがついてまわるような印象があります。
贈り物を開くときや、初めて訪れるお店の扉を開くとき、手紙やメッセージを開くときも、状況や関係性によって期待と不安が入り混じっているような感じがするなと。
特に手紙というのは最近ではなかなかやりとりする機会もないので、もし不意に、知り合いから便りが送られてきたとしたら、驚きや嬉しさや、ちょっとした緊張感があるのではないでしょうか。
普段から手紙を送ったり送られたりしている方もおられるとは思いますが、手で言葉を書くというのは、やはり直接の会話やメールなどとは違う気持ちの伝え方になるのではないかなと思います。
小説も言葉で書かれたものですが、その中でも手紙のやり取りだけで物語が語られるものは、雰囲気というか、読んでいるときの感じが違って、手紙を受け取った人の後ろに立って盗み見ているような、独特な読み心地がします。
ということで今回は、「書簡体小説」をご紹介してみようと思います。
『錦繍』(宮本輝、新潮社)
ある事件を機に離婚した男女の、過去と現在、そして未来を語る数通の手紙のやりとりから、人生の機微が描かれるお話。
ほとんどの手紙が長文で、心に浮かんだことをそのまましたためたような文章なので、無意識に書いてしまう言い回しや抽象的な思考が一人語りのように綴られます。特に、不倫関係の女性と無理心中事件を起こした男性が死の淵で体験した、
「悪と善の精算」「気が狂う程の苦悩と寂寥感」
という感覚や、身体的な障害のある子供の母親となった女性が語る
「生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら同じ」
という文章など、言葉で表現されていてもなかなかイメージしにくいものもありました。
ですが、現在から過去を語り、そして過去に立ち戻って現在を見つめるような手紙を交わすうちに、無関係に見えるさまざまな事柄につながりと意味が見出されていきます。
自分の経験や思いを言葉にすること、それを他者が受け取って、また言葉にすること。そうして言葉を交わしているうちに、お互いに自分でも気づかなかった心のどこかが開くということが、手紙というものを通して行われているのでないかなと。
目の前にいない、心に浮かべた相手に向かって語りかけるということは、自分に向かっても語りかけていることかもしれないなと思いました。
『恋文の技術』(森見登美彦、ポプラ社)
大学院の研究のために能登半島の実験所で半年を過ごすことになった主人公が、京都の友人たちに向けて手紙を書くという「文通武者修行」小説。
主人公が書く手紙のみで構成されるのですが、同時期に複数の人宛てに手紙が書かれることによって、いろいろな視点から物語が描かれ、伏線が回収されていきます。
「希望的かつ絶望的環境」
「ぷくぷく粽」
など独特の言い回しとワードが面白くて、相手が手紙に書いてきた内容や起こった出来事を想像するのが楽しく読んでいて思わず笑ってしまいます。
手紙を送る相手によって態度や言葉遣いが変わるので、その人との関係性や主人公のこともいろいろな面からわかってきて、物語世界が広がっていきます。
読書していると、読み手として客観的に俯瞰していたところから、お話の人物に重なっていくような瞬間があるのですが、この作品でも終盤、一番思いを届けたい人についに書くことができた手紙を読んでいるときにはすっかり感情移入してしまいました。
この世で一番美しい手紙というのは、
「ただなんとなく、相手とつながりたがってる言葉だけが、ポツンと空に浮かんでる」
という、用件もなく、なんでもない手紙であるという一文に、言葉が手紙に乗って相手に向かって飛んでいくような情景を思い浮かべました。
書きたいことを書けるというのは、タイミングと、自分と相手に対してどれだけ開いているか、ということが関わってくるのかもしれないなと。素直に心を開いて手紙を書くというのは、まさに修行が必要だなと思いました。
先日お客様に岸田國士の「ヂアオログ・プランタニエ」という二人芝居を教わって、動画で観る機会がありました。
フランス語で「春の対話」という意味で、二人の女性が一人の男性を巡って交わす会話劇ですが、一方の言葉を他方が受け取って、また言葉を返すという会話の中で、お互いが少しずつ本音を語ることでその場に関係性が開かれていく、ということを感じました。まさに「対話」だなと。
春は今までの場所を離れたり、新しく人と出会ったりすることもあるのではないかと思うので、新しい関係性をつくる対話の機会が増えるかもしれません。
気持ちを100%言葉にすることは難しくて、時間もかかるものだなと思いますが、気持ちが言葉にくっついて相手に届くかもしれないという期待がどこかにあるように思います。
そして相手から受け取った言葉や気持ちが自分の何かを開いて、また言葉になっていくということを繰り返して、もしかしたら「理解」ということにつながっていくのかもしれないなと。
手紙というのは、相手をゆっくりと理解するという方法の一つなのかもしれないなと思いました。
本を開くときも、その物語や世界観のためのスペースを自分の中に開く感覚があります。本に書かれた文章や登場人物の言葉が、鍵のようになって何かの扉を開いてくれるだろうかと期待しながら、今日もまた読書日和です。