縁あって米原康正さんとお知り合いになれたこともありジュンク堂池袋本店で購入。それに戦後から現代にかけてのカルチャー史は研究対象なので。
本書は80年代あたりのサブカルチャーを当時の現場を過ごした当事者たちが語り合うトークイベント(人を変えて全3回)を書き起こしたものである。
全体としては、トークイベント1回目のSM論が分かりやすいけど下品だなというのと、3回目の根本敬さんの絵=へたうま論が興味深いなというのと、米原さんの若者たちと接した現場からの意見が僕には光って見えるというのと、というところだった。
ってなわけで、知識として気になったところをメモ的に要約しつつ列挙する。
"米原 その当時はもう思想的なものが有耶無耶になっていた。情報誌全盛の時代だったんです。象徴的なのは、80年代に宝島が姿を変えていきました。"
p.16
米原康政さん、学生時代に出版社でアルバイトをしていたことを受けて。
(60年代のデモから10年かけてなぜに思想的なものが有耶無耶になったのか?)
"80年代当時流行っていたものとしては、オカルトですね。先ほど挙げた『遊』や『エピステーメー』も、グルジエフやシュタイナー等々、オカルト的なものを当たり前のように取り上げで、後に大学の先生になるような人たちぎそこで書いていました。"
p.18
菩提寺伸人さんの発言。
(この当時のオカルトがいかにして現在のフェイクニュースに繋がるのか?)
"僕が女子を追っかけているのは、日本のアウトサイダーだと思っているからです。特に十代の女の子たちですね。要するに男の社会に入らずに生きていける唯一の時期だったりするわけです。"
p.20
米原康政さんの発言。
(男性社会ってものが僕は苦手なのだけれど、そこに入らないでいられる状況ってのはどんなものなのかな)
"むしろ80年代の方が多様な個々ではなかったということですよね。
p.25
…略…
米原 だからブームが作り易かったんだと思います。『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系列)が始まったのが83年でした。ドリフターズの『8時ダヨ!全員集合』(TBS系列)が終わったのが87年。"
(それはそうなんだよなあ、という感覚がある)
"80年代は、ある種「ものを考えるな」というメッセージが強力にいろいろなところが発信されていたと思うんです。マンガは特にそうで、その頃からヤンキーマンガが登場します。ヤンキーマンガでは、頭がいい人、お金持ち、先生はすべて敵。"
p.34
米原康政さんの発言。
(この「頭がいい人、お金持ち、先生はすべて敵」という感覚は僕も残念ながら持っている。完全に漫画の影響だと思うけど、なぜこうなったのか。どうしてこういう漫画が出てきたのかを知りたい)
"菩提寺 当時のセゾンは後追いという印象があります。その前にムーブメントがあって、それを拾って付加価値をつけていくという。宮沢章夫さんは、「〈六本木WAVE〉にはなんでもあった。レコードにポップを付けるのはWAVEから始まった」とか書かれていますが、WAVEにはそんなにレコードがあったわけじゃない。ポップなんてどこのレコード屋に行ってもあった。"
p.35
(カルチャー論で調べると出てくる宮沢章夫だけれども、印象で書いているということかな。それとも批評家で現場の人ではなかったってことかな。まだちゃんと読んでいないから分からないや。)
"菩提寺 宮沢章夫さんは80年代について「非身体性の時代」と強調されてますが、80年代は前出のボディコンが流行ったり、むしろ身体性は強かったのではないか。宮沢さんは非身体性という例でテクノやYMOを出していますが…略…それはどちらかというと極めて身体的で、機械の自動的な暴走に人間が無理して運動器を合わせていく感じ。"
p.45-46
(批評と現場の感覚の違い、かな。宮沢章夫、今後読むこともあるだろうからこの違いは覚えておこう。)
"アイドルグループのBis-新生アイドル研究会-が突然不思議な盛り上がり方を見せました。
(アイドルのこと、分からないけどこちらも縁があるので知らないとだよなー。まだ食指は鈍めだけれども)
…略…
米原 Bisのお客さんはハードコアから来る人が多かったんです。解散した時のBisのお客さんは、ほとんど非常階段のライブに来ていてもおかしくない人たち。"
"ポストモダン系の議論で、従来の「主体性」に関する議論と異なるのは、突っ張るとかえって自分が捨てようと思っている近代合理性や型にはまった思考に、逆にはまっていく、という視点です。いわゆる二項対立を完全に避けることはできないけれど、ある程度相対化しようと思ったら、「これが能動的な在り方」「これが受動的」とはっきり分けて考えないようにしよう。「主体性」は大概は能動的だと捉えられますが、そのような能動性の理想像からまず崩していこう。"
p.55
仲正昌樹さんの発言。
(能動とか受動とかどちらでも良いから、まっとうな議論ができて嘘をつかない質問にはちゃんと答えることが、マスコミ含め権力を持っている人に浸透するにはどうしたら良いのかって考えちゃうなあ。いやそれとこれとは全く別の話なのは知っているけども)
"先ほど米原さんから、80年代はとんねるずの番組等、マジメな人をバカにする空気が積極的にあったという話がありました。ダウンタウンもそうですが、後輩の芸人や自分より少し下の芸人にやたら手を出すとか、暴力的に扱うとか。そういう番組が一時期流行りましたね。"
p.57
仲正昌樹さんの発言。
(僕もその影響下にいるのは間違いなくて。河村たかし市長のメダル齧り事件を受けてよかったツイートに”自分の中の河村たかしと折り合いをつける”って言葉があって、きっと同じことなのではないかなと思った。自覚して生きていかないとな)
"ある意味80年代は、東大生をイジメるとか様々なことをやりながら、肩の力を抜いていくというか、マニュアル化されたコミュニケーションをどうやって脱却するか、ということを求めていたように思います。…略…80年代は型にはまらないコミュニケーションの「型」を見つける、というような逆説的なことが続いていたような気がします。
p.62-63
…略…
80年代は型にはまった主体性を超える主体性の「型」みたいなものを求めるモードが、世の中一般の世相としてあったと思います。…略…例えば『朝まで生テレビ!』のように、いつ壊れるか分からない、いつ喧嘩するか分からないという雰囲気がウケました。逸脱する主体性に「本当の主体性」が現れているのだ、というモードでした。でもそれは世相的にもマスコミ的にも90年代に段々と崩れていったという感じがします。…略…真の主体性探しゲームのようなものに疲れてきた時に、細木和子のような究極のSが出てきたのだと思います。…略…みんながそういうキャラに説教される人を見て喜んでいた。
…略…
主体性を追求するモードが逆転し始め、むしろ「言われたい」「怒られたい」という風潮が出てきたのだと思います。"
仲正昌樹さんの発言。
(真の主体性探しゲームという言葉は興味深い。だいたいが「真の」とか「本当の」って枕詞を使い出したら怪しいと僕は思うのだけれども、この怪しいの感覚の元みたいなものを言い表している言葉かも?)
"80年代にはアンダーグラウンドの『突然変異』という雑誌がありました。…略…そういう露悪的で悪趣味なことをすることが80年代には一部、裏で流行っていたように思います。
p.66
仲正 …略… 主体性競争をやるとどうしても露悪的になっていきます。"
菩提寺伸人さん、仲正昌樹さんの発言。
(主体性競争をやると露悪的になるってなんだかTwitterみたいだな。)
"マニュアル通りにしてその中で差異を確認し合って安心していた感じがありました。
p.67
仲正 その際も本当の差異ではなく、マニュアルで「これが差異だ、」というものを作り、それが巨大マーケットとして成立していたんだと思います。「どのようにすれば主体的に見えるのか」という理想像のようなものがあった。…略…今は、「このように振る舞うと社会のヒエラルキーを解体したことになる」等というマニュアル自体が嘘っぽいということが最初から分かり切っている。主体性競争が実体的に崩壊してきていると思います。"
菩提寺伸人さんと仲正昌樹さんの発言。
"オネエと外人は正論を言えるけど、その他の人たちご正論を言うと圧倒的にバッシングを受けるという状況は、ずっと変わっていないと思うんです。…略…「自分たちの村とは違うから」という意識が強いから受け容れられるのでしょうね。「あの人たちが本当のことを言っていても私たちには関係ない」みたいな。
p.67-68 米原康政さんの発言。
(どんな地獄かと。)
"真の主体性を60年代、70年代と求め過ぎたので、80年代に入り、実は受動的であることが主体的だというモードに変わったということです?
p.70
仲正 受動性も必要だということです。
(そもそもの主体がないからこんな状況になるんじゃないかな?)
"菩提寺 …略…初期の『きゃりーぱみゅぱみゅ』はメジャーに行きましたが、彼女のファーストアルバムは素晴らしいと思います。ブライアン・イーノが提唱した環境音楽。それはエリック・サティの『家具の音楽』、そしてそれを経由したジョン・ケージからも取り入れ、集中しても聴け、垂れ流しでも聴ける良質な音楽というもの。"
p.77
(ここらへん全然わからない。触りだけでも勉強したいな)
"米原 それはまさに80年代のヒップホップとサンプリングから生まれているものだと思うんです。そのサンプリングが物真似やコピーではなく、もう一回編集し直してそのフレーズを違うように響かせるとか、違う意味を持たせるようになれば、すごくいいのではないかと思います。
(編集とかキュレーションとかインターネットの文脈だけでなく、ヒップホップの世界とも関わりあるのかー。西海岸のヒッピー文化とヒップホップって関わりあったっけかな?)
…略…
米原 その辺は今の若い子たちはすごく得意。そこに期待です!"
"声を持たない、自分の言葉を持っていない、名前も持っていない、つまり自分の主体がはっきりしないような人たちが、何かに乗っかることによって大きくなる、ということでしょうか。自分と同じような意見の人の言葉を引用することによって、「これが自分の言葉なんだ!」と作り上げてしまう。自分は脆く弱いので、個vs.個としては対峙できない。それが、リツイートでも、他の人の大きな言葉をまとうことによって、明確ではない対象に対してドーンと大きく出れる。そういう現象だとも言えるのではないでしょうか。"
p.98
司会の菩提寺光世さんの発言。炎上をめぐっての話。群衆(エリオス・カネッティ、群衆の中にいる他人を自分のミラーにしている)になることによって主体性を感じられてしまう。
"ある種、情報の民主化に伴い、若者たちは「僕らはテクノロジーがあるから簡単には騙されないぞ」という考えを一般的に持っているようですが、その「簡単には騙されないぞ」という考え自体が、僕はコントロールされているのではないか、と思っているんです。紋切り型の反体制というか、実はその思想すらもある種マーケティングされているところがあるんじゃないか。"
p.103
信國太志さんの発言。
(安倍政権のインスタマーケティングとか電通とか。麻生大臣のナチス発言とか。見事にやられているよなあ)
……ダメだこれ勉強不足過ぎて書ききれない。特にファッションと音楽面は全然だ。というわけでへたうま展のところだけあとは書くことにする。この本はどこかで読み直そう。
それと、『NHKニッポンのサブカルチャー史』(都築響一)
読もう。
"フランスで2014年にへたうま展をやった。大規模な展示会でかなり話題になり、評判だったが、ところが日本のメディアでは、それほとんど取り上げられなくて、日本では「へたうま」の概念自体が正しく理解されてないと……。"
p.201
菩提寺伸人さんの発言。
(根本敬さんの作品展かな。気になる。)