純文学系の新人賞の選考委員が小説家と文芸評論家と大体相場で決まってしまっているのにずっと疑問を抱いてきた。なぜ書店員がその中に入っていないのか。
純文学のデビュー作を決めるのに際して、文芸誌編集部は、候補作の中から優れた作品を選ぶことができるのは小説家と文芸評論家だけだと思っているのだろうか。あくまで推測だが、作品を選ぶには小説を書ける小説家と批評・評論を書ける文芸評論家がふさわしいと考えているんじゃないだろうか。作品をつくれる人間だけが作品を選ぶことができると。
だとしたらそれはちがうんじゃないの? と僕は思ってて、文庫の解説や書評を読むと面白いものを書いている書店員はたくさんいるし、エンターテイメントとちがい純文学は売れる売れないで評価を決定するわけではもちろんないけれども、作品が載った文芸誌が販売されるのは書店だし、話題になって単行本化して販売するのも書店だし、それだったら作品の良し悪しプラス活字化したあとも作品にしっかり関わる書店員を選考委員に入れてもいいのではないかと思うのだ。
書店員の関わっている賞だと本屋大賞があるけれども、あれはエンターテイメント寄りの作品が候補になることが多いし、五大文芸誌の新人賞とは方向性があまりにちがう。直近の芥川賞候補作の五作は、初の女性作家のみの候補作が並んだことで随分と話題になった。単行本の売れ行きも好調なようだ。
たしかにこれらの作品の選んだ中に書店員はいないし、いなくても本が売れてる。というか、書店員を入れたからといって受賞作が売れるかなんてまったくわからない。しかし、それでも僕はもし書店員がこの中の作品を選ぶのに入っていたら、もっと盛り上がって純文学を売っていこうという流れがさらにいろんな本屋でできるんじゃないかと想像する。
この想像は自分の頭の中だけの話ではない。僕はリトルプレスをつくっていくつかの本屋に置いてもらっているが、店主の人たちと話して盛り上がる小説はエンターテイメントではなく、圧倒的に純文学作品だからだ。大型書店と違って、小型のリトルプレスをあつかうような個人書店は、大衆小説よりも文学作品を並べるところが多い。
じっさいに足を運んでみるのがはやいと思うが、独立系書店は、ベストセラーを並べるのではなく、店主の好みや個性を表現した本棚だからこそ買う側も本を探して買うのが楽しい。世の中には信じられない数の本が日々出版されているわけで、小さい本屋は置ける本の数は限られている。もし売れる本だけを並べたらたぶん、駅構内の小さめのチェーン店のような本がずらっと並ぶだろう(売れる本を並べる本屋を否定してるわけじゃありません)。
駅の中で急に本を買って読みたい人のニーズに合わせるならそれが正解だろうが、街の一角で個性的な店をやろうとするなら不正解だろう。そうすると必然的に、出版点数が多い作品よりも作品の中身の質を重視したり、他ではあまり置いてないマニアックだったりニッチな作品を選ぶラインナップになってくるだろう。ならば作品自体のこともよく知っていないとならない。その場合、幅の広さよりも深さが重要になってくる。
だからだろうが、僕が好きな文学作品の面白い作品が並ぶ本屋の店主とは文学について深い話ができるので非常に面白い。深い話ができるということは、深い読みができるということでもある。さらに言えば読める人は文章を書ける人も多い。ただ、書店員の本屋本であったりエッセイが面白いのは言わずもがなだが、フィクションの作品になるとあまり見かけることがない。
最初に話は戻るが、作品をつくれる人が新人賞の選考委員になっているなら(再度言うが僕の推測である)、書店員もフィクションをどんどん書いていくことが、その道を切り開くことになるのではなかろうか。というわけで、ようやく本題に入るが、今回は、書店員の書くフィクション作品を二作を紹介したい。
一作目は、文芸誌『海響一号 大恋愛』に載っている根井啓「積読入門」である。こちらは早稲田のNENOi店主の作品で、目次を見ると「評論 随筆」にカテゴライズされているが、僕はこれはフィクションであり小説として読んだ。
たんたんと辞書のような記載の仕方でいろんな積読が解説されていく。例えば「色積読【いろ-つんどく】」では、
〈本を大きさやサイズではなく、背表紙の色で分けて積むさま。〉
とあるのだが、そのあとに、
〈本を色ごとに分けるのみならず、レインボーカラーや緑一色、国旗など様々なアプローチがあり、積読者の好みや嗜好が反映されやすい積読法である。〉
とじっさいにあるのかないのかよくわからない積読の解説はとぼけたユーモアがあり、現実と虚構を文字で行き来するさまは、非常にライトな言語SFのような読み心地がある。「大恋愛」というテーマと結びつきが薄いけれども、そこもまたこの作品を異色にしている点ではなかろうか。本屋店主が積読について書くこと、しかもこういった形で文章にするということを考えながら読むととても味わい深い作品だ。
もう一作は、ネットで読むことができる。文芸の異種格闘技トーナメント、ブンゲイファイトクラブ3に掲載されている竹田信弥「幸せな郵便局」である。こちらは赤坂の双子のライオン堂店主の掌編である。
ブンゲイファイトクラブは、作品を提出するファイターと作品を審査するジャッジで勝ち上がりを決定する大会だ。ジャッジの青山新が「幸せな郵便局」について東浩紀の「誤配」を指摘しているが、僕も作者はこの作品に関してそこを意識していたのではないかと思う(竹田さんと直接「幸せな郵便局」の中身について話したことはないけれど、二人とも東浩紀を読むのでたびたび話すことがあるのでそう思った部分も正直ある)。
東浩紀のテキストは「~かもしれない」の哲学と言っていいくらいに、誤配で変化する未来への分岐について書かれたものが多いが、この作品もまた何かが起きそうだという思い込みの思考と、登場人物たちの現実のズレの連鎖を書いているように読める。テクニカルな面では、
〈もう一度伝票を見るとさっきはぼんやーりと目の悪さでぼやけていた文字が、ぬーんって感じでぼやけていた。〉
や
〈感熱紙のシートがぺろぺろーと出てきた〉
という独特の言葉を挟み込むところで、短い枚数のわりにややこしい内容に軽さが入り交じって特有の世界観を作り上げている。
どちらも短い作品でサクッと読めるが、非常に面白い書店員のフィクションであるので、未読であれば、ぜひ読んでみてほしいところだ。そして話題になって、この二人のフィクション作品をもっと読むことが僕の願いだ。