去年の夏以降、ショックな出来事もありずっと一度観たアニメか異世界転生漫画かしか観れていなかったけれど、思い返してみるといろいろ読んでいみたいである。せっかくなのでメモレベルだが記録をつけておいたので、昨年末までのものを一気に挙げる。
『グッド・フライト、グッド・ナイト』(マーク・ヴァンホーナッカー 岡本由香子 訳、ハヤカワ文庫)
ボーイング747の機長が綴る空とパイロットのエッセイ。夏の暑さと例の事件で疲れ切った頭を休めるのによく効いた。
エッセイについては平松洋子さんの食もの以外、何が良いのかあまり分からなかったのだけれど寝る前の時間に読むと心地良いのだということを本書を読むことではじめて知った。
飛行距離によっては沈む夕日を、昇る朝日を何度も見たり、友人が全世界に散らばっていて数年ぶりに顔を合わせるみたいなことがザラだったり。
知らない世界、関係ない世界には肩に力が入っていない、例えばベッドの上がちょうど良いのだと知った記念すべき本であった。
『言葉だけの地図 本屋への道のりエッセイ』(宮崎智之・山本ぽてと、双子のライオン堂出版部)
『グッド・フライト、グッド・ナイト』でエッセイ良いなあと思っていたら、Twitterで本書の著者の一人である宮崎智之さんが「エッセイを盛り上げる企画をしたい」ツイートしてらしたので手を上げたらBSTで「過去と現在をつなぐ日本の随筆フェア」をやることになった。そのときにご恵贈いただいたのが本書である。
(フェアのきっかけとなった『モヤモヤの日々』(晶文社)は少しずつ寝る前に読み進めている。分厚いので読み終わるまで時間がかかる)
本屋ライターとしては見逃せない一冊なのだが、二人の文体が違いすぎておもしろかった。地域性や歴史と日常をアクロバティックに接続する宮崎さんと、その時々の気持ちとそこに至る過程を周囲との関係性を持って語る日記みたいな文体の山本ぽてとさんと。
"なぜ人はエッセイで書けない話を本屋に行く道すがらにしてしまうのだろうか" p.90
山本ぽてとさんの文章を読んだのはこれが初めてだったけれどもっと読みたくなったのだった。
『一般』(オルタナ旧市街)
上記フェアで宮崎さんが選書してくれた中でイチオシとおっしゃっていたので読む。
"旅先でその街の暮らしぶりを体験しようとする行為は、じぶんでないものになりきるという、極めて個人的な演劇のようだと思う。" p.13
香港のエージェントとの会話
"彼の話術へのチップ代わりにパンダの顔の形のクッキーを二箱買った。曰く「職場や学校でちょっとしたおみやげとして配るのにうってつけですよ。わざわざ買っていくほどじゃないけど、話のタネに何かあげたいような時ってあるでしょう」とのこと。まったくその通りである。" p.38
香港のカフェレストランでのこと
"日本人であることは基本的にお得だった。ずっとそう思い続けられればいいなと思う。" p.44
"少しだけうれしい晩はフォスター・ザ・ピープルの名盤『Sacred Hearts Club』を聴きながら少しだけ歩道をはみだしながら踊る。喜びこそが抑圧に抵抗する唯一の手段だと、このアルバムを発表した際のインタビューでマーク・フォスターは語ったらしい。…略…叫びたくなって息を吐く。ああ、もっと、身体が軽やかならば気持ちがいいだろう。あるいはどこまでも伸びやかな声が出せたなら。" p.66
宮古島でのこと
"うらぶれた路地裏に落ちる木影の濃さのほうが、わたしにはよっぽど印象的であった。どれも島時間という名の、退屈そうに間延びした真夏の残像というのがこの島の姿なのかもしれない。" p.83
以上が良かったフレーズだけれども、あとがきがとにかく良かったので、これを読むことができただけで買った甲斐があるというものである。
あとがきにて
"あなたのために書かれた文章というものは、この中には存在しません。けれどもあなたはわたしであり、わたしはあなたである可能性をほんの少し秘めています。あなたもわたしもオルタナティブなひとつの個体。じぶん自身を見下ろせば、それはいつだって他者のかたちをしています。わたしはわたしのことを、わかったつもりには決してならない。だけどどこかで道に迷ってしまってもいいように、じぶんの足跡をばらばらに残しておきます。わたしが永遠に、わたしだけの代弁者であるために。" p.100
『プールの底から月を見る』(星野文月)
出版記念展を当時ひと箱店主だったNowhereさん主催でしていただいたときにご恵贈いただく。
書名の通り、というか何というか、水底から明るい方を仰ぎ見るような揺蕩うような文章が気持ち良い。ちょうど読んでいた時期は精神的にも肉体的にもしんどかったので染み入るようだった。
元気のない時にこそ読める本もあるのだな。
『増補 サバイバル! 人はズルなしで生きられるのか』(服部文祥、ちくま文庫)
冒険やらサバイバルやらといった本は好きでときどき読んでいる。この本は冒険研究所書店の荻田泰永さんが著者とトークイベントをしていたので読んでみようと思った。
自分は読んだり書いたり話したりすることが好きなだけでサバイバルというかアウトドアすらあまりしたことのない人間なので、こんなことを書くのも烏滸がましいと思うのだけども、期待とは違った内容だった。
というのも「サバイバル」というから「やっぱり石を割るところからなのかなあ」とか「弓きり式発火具で火をつけるのかなあ」とか、こう耳年増なエクストリームなことを勝手に想像していたのだけれど、これが意外とアウトドアギアやらライターやら文明の利器に頼っていて、意気揚々に「身一つで生きる!」と書いているのに「ええーっ」と驚いてしまったのだ。
そんなこと言わなければ素直にすごいなあと思うのだけれど、言ってしまうのがはじめは余計に感じられたのだ。でも本書、という著者の文章はむしろそこからが本領発揮でなんというかかわいいのである。
"これ以上私の登山を文明に汚されるわけにはいかない。" p.109
と書きながら、フライフィッシングの竿は最新だったり雨具はゴアテックスだったりする。でも、できる範囲で"禁欲的なすがすがしい生活"(p.109)を山に無理強いされにいく。
文明を削ぎ落としていくけども、山は厳しい環境でやっぱり必要なものはどうしたってあるわけで、頼るところは頼る。と言いながらもきっと著者は「できれば裸一貫で生き残れるようになりたい」なんて思っているんじゃないかと思わせてくれる。
その道を歩くこだわりとストイックと、利便性に負ける人間であることのせめぎ合いみたいなところに読み応えがある本だった。
それはそうと道具について書かれている文章は大好きなので「第三章サバイバルの方法論」は最高だった。
『優雅な生活が最高の復讐である』(カルヴィン・トムキンズ 青山南 訳、田畑書店)
本書のことは『優雅な読書が最高の復讐である 山崎まどか書評エッセイ集』(DU BOOKS)を通して知っていた。どちらも読んだことはなかった。タイトルが好きだったのである。めちゃくちゃ共感するのである。
なので、去年、田畑書店のポケットスタンダードシリーズで出ると知った時はこれはもう買わざるを得ないと買ったのである。
1920年代のフランスを生きたアメリカ人夫婦マーフィ夫妻(ジェラルドとセーラ)とその周辺のことを綴ったノンフィクションが本書だ。フィッツジェラルドやヘミングウェイとの交流があったという夫妻。絵に描いたような優雅な生活を自ら作り上げた夫妻。
そのこと自体は1920年代のフランスという時代背景を考えればそんなに驚くべきことではないとは思う。第一次世界大戦から世界大恐慌にいたる約10年の間、パリにはピカソが、ダリが、デュシャンがいたのだ。
孫引きになるが
"「一九二〇年代から一九三〇年代のあいだは、だれもが本気でなにかを作り上げようとしていた」" p.21-22
本書で描かれるマーフィ夫妻の生活はたしかに素敵で、その詳細については読んでいただくとして、僕が気になるのは夫妻の意思の話だ。
"「ぼくたちはつねにおおいに楽しみながら自分たちのやりかたでものごとをひとつひとつ進めていくのですーーなによりもまずいっしょ、しかしぼくたちの流儀は貫いて」。“ p.35
"「ぼくはたしかこう返事した。『人生のじふんでこしらえた部分、非現実的なところだけが好きなんだ。たしかにいろんなことが起きるーー病気とか誕生とか、ゼルダのブランジャン入院とかパトリックのサナトリウムとか義父ウィボーグの死とか。それが現実だ。どうにも手の出しようがない』。すると、スコットが。そういうものは無視するってことかい、と訊いてきた。だからこう答えた。『無視はしないが、過大視したくない。大事なのは、なにをするかではなくて、なににこころを傾けるかだとおもっているから、人生のじぶんでつくりあげた部分しか、ぼくには意味がないんだよ』」。" p.136
"セーラは人生には恋をしているが、人間はいまひとつ信じちゃいないね」と、ジェラルドはスコット・フィッツジェラルドに語ったことがある。「僕は逆だ。手を加えないかぎり人生はとても耐えがたい」。" p.141
"「しかし、かれらの人生においてパトリックのためのあのたたかいほどみごとなものはないだろう。ふたりは最高に生き生きとした、最高にチャーミングな、最高に思いやりに富んだ人間であるだけでなかったーー夢の家の屋根が美しい居間に崩れ落ちてきたとき、最高に勇敢だった」。" p.180
本書の書名はブログ「チェコ好きの日記」によると
"「優雅な生活が最高の復讐である」というのは、もとはスペインの諺で、「だれかを復讐したいと思うくらい憎く感じるなら、そんな嫌いなヤツのことは忘れて、自分が幸せになる努力をしよう」というどこかの自己啓発本に書いてありそうな言葉らしい "
とあるが、マーフィ夫妻が復讐したい相手がいるというのならばそれはきっと人生そのものに対してであろうと思う。良いことも悪いことも起きるがそれでも自分の意志を生きること。それがままならない人生に対する復讐たりえる、とそう言っているのではないだろうか。
『さよならシティボーイ』(すなば、トーキョーブンミャク)
BSTでトーキョーブンミャクさんが棚を借りてくれたことがある。そのときは『今夜』が最新刊だった気がするが、少しして退会して、さらにしばらくしてから本書が出た。タイトルも好きだが、結構前にTwitterで話題になったうんこを漏らした話を書いた人のエッセイ集だと思い込んでいたのだが読んでみたら違った。本当に申し訳ない。
というように第一印象はある種最悪ではあるのだが、都会住民の悲哀と日常を詩的に書いた、ふんわりと丁寧な手つきで感情に触ってくるような文章であった。
読んでいるとなぜかきのこ帝国の『クロノスタシス』が頭の中で流れるんだよな。
"体の両端から走って首の後ろで渦を巻くような日差しの熱気。これに、半分水につかったようなどうしようもない湿気が加わるのが日本の夏だ。" p.45
"僕は棲む 海辺の家に
雲のあり方を見つめる
波間に老人の唄を聴く
床磨く日々をいつくしむ" p.50
'僕はふと「床磨く日々」の何たるかを了解した。
大切なものを大切にすることだ。
自分が長く持ちたいと思っているもの、自分と長く接しているもの、自分の身体を構成するもの、自分の生活を作るもの。それら全てに、自分にとっての価値に見合った時間と手間を投入することだ。" p.55
やなせたかし『アンパンマンの遺書』(p.86で紹介)読みたい。やなせたかしさんのことはもっと知りたい。
"「詩」という浄化ルートがあるからこそ、怒りや悲しみや理不尽を伴う事実を、僕たちは赤ん坊のように泣き喚く以外の方法で処理することができる。" p.124
自分が書きたい文章に近いかも。
『じゃむパンの日』(赤染晶子、palmbooks)
Twitterで話題だったのと、アトロクで岸本佐知子さんが勧めてらしたということど買う。というか帯を読むと交換日記を収録してるのね。
リズム感がとにかくおもしろくて、素っ気ない感じなのに可愛げがあるんだ。こういう人、いるよなあ。口数が多いわけじゃないけどなぜか目が離せなくて時々笑ってくれたりすると嬉しくなっちゃうような人。そんな妄想をしてしまうような独特の魅力を持った文章であった。
"あ、いけない。わたしは貧乏な妻だった。ねえ、えなた。また二人でポーレチケを踊りましょう。昔はよかったわね。地球は丸くなかったもの。今は足元がぐらぐらして、地団駄も踏めないわ。ポーレチケはひとりでは踊れないのかしら。" p.13
"鶴吉さんはこの町で毎日生きている。無事に生きている。町内会の役員もした。長谷組合の役員もした。あんないい人はいない、と祖父はよく言う。祖父は鶴吉さんが好きだ。" p.22
p.78の「北の国から」。もう長いから抜き出さないが最高の一編である。
"試着室に戻れば、わたしは新婦の味方だ。靴が脱げても、パンツが脱げても負けてはいけない。あなたはきれいになるのだ。" p.114
"「世の中にはヨーグルトが好きな人もいるし、音楽を好きな人もいる。それだけのことよ」" p.160
"(生まれる前のことでも懐かしく思い出せる。それが京都人なのです)。" p.200
『翻訳はめぐる』(金原瑞人、春陽堂書店)
春陽堂書店さんのWEB連載「本と人と街をつなぐ 明日へ続く本屋のカタチ」で取材していただいた関連で読む。海外文学はSFを除くとあまり読まないのでこういう機会があると嬉しい。
ベテラン編集者による翻訳をめぐるエッセイである。
大学時代の第二外国語がドイツ語だったり英検を取ったり台湾が好きになったのでちょっとだけ習ったりはするが外国語については、特に翻訳について知っていることは少ない僕のような人間からすると、知らないことばかりでとても面白く。
日本の古典を現代語訳している角田光代版『源氏物語』とか古川日出男版『平家物語』とか町田康版『宇治拾遺物語』とかすごいよねという話(確か英訳されたものをさらに邦訳しなおしたのもあったな)とか、主語や単位の扱いって判断が難しいよねって話とか、そんなところに谷川俊太郎の言葉
"僕は、言葉ってものをあんまり信用していないんです。言葉の宿命みたいなもので、実在そのものに迫りたいと思っても、実在は言葉では捉えられないんですよね。" p.84
を紹介していたりとか。翻訳の話の中に、言葉の限界を語るって誠実だよなあ。当たり前なことかもだけど。
漫画の英訳をするのにはじめは縦書きだったのに横書きになっていった話とか幕末から明治にかけての和英・英和の辞書や入門書の表記(縦横左右)がまちまちだった話とか。旅館にある横長の額に書いてある右から左に読む一期一会みたいな言葉は実は縦書きを改行したって話には驚いた。もしかして「かすていら」とかもそういうことなのかな。
表記についての話は昔の資料を画像として載せているのも良き。
レコードの収録時間に合わせて一曲の長さが決まっていった話から手書きからワープロなど道具の進化によって小説家デビューの年齢が早まっていったのではないかという話が出てきたり、50年代のアメリカで世界初の「若者」が誕生し、それいち早く作品にしたのが『キャッチャー・イン・ザ・ライ』であったことや大人と若者がぶつかる「反抗期」という概念がその頃に生まれた話とか。
まあ言葉についての役に立つようで立たない、でも知っているとなんだか嬉しくなる話がたくさん収録されていて、これはあれだ、休日の喫茶店とか仕事終わりのバーで酔いながら読むと良いやつだなんだと読み終わってから思ったのだった。
『本の花 料理も、小説も、写真も』(平松洋子、角川文庫)
平松洋子さんの本は見かけたら買うようにしている。これで何冊目だろう。言葉の砕け具合と熟語というか教養というかそういうバランスが読んでいてとても心地良いのだ。
食、物語、暮らしの本の紹介と購書日記が収録されている。
『開店休業』はあの思想家に食の面から迫った本があったのかと興味をそそられたし、『愛の山田うどん「廻ってくれ、俺の頭上で‼︎」』はやはりいちうどん好きとして読まねばと思ったり、『やわらかなレタス』は江國香織さんだし読んでみたいなあと『ホントのコイズミさん YOUTH』のインタビューを読んでもなんだか合いそうな気がするのだよな。
内澤旬子『飼い喰い 三匹の豚とわたし』『ステーキ!世界一の牛肉を探す旅』は肉食好きとして読んでおきたいし、片岡義男『ナポリへの道』は紹介されている"ケチャップはファンタジーだ"などの名台詞から一読を誘われる。
色川武大の作品はどこかで読んでみたいと思っていたので紹介されていた『喰いたい放題』は脳内本棚に並べられ、同じ文章内で触れられていた種村季弘『食物漫遊記』はもちろん隣に置かれることになった。
同物語の本棚の橋本治『初夏の色』はこちらも著者のことが気になるので読みたいし、これは項目立てされたわけではないが199pで触れられた『安閑園の食卓』は数年前に知人から勧められたので文中に見つけられたのが嬉しい。
暮らしの本棚では『新宿、わたしの解放区』ら新宿区育ちとして全共闘時代を知るために読んでみたくなり、ファッション史に興味があるので『原由美子の仕事 1970→』は手元に置いておきたいし、『相対性コム デ ギャルソン論 なぜ私たちはコム デ ギャルソンを語るのか』も同様である。
山下清のことはテレビで紹介されてきたことくらいしか知らないから『山下清の放浪地図 昭和の日本をぶらりぶらり』『山下清作品集』も気になるし、近現代史のことも知りたいので『ミシンと日本の近代』『『青踏』の冒険 女が集まって雑誌をつくるということ』も読みたい。
こうやって書いていくと平松洋子さんだけあって食の本に気になるのが多かったみたいだ。ああ読みたい本は増えるばかり。
『いい感じの石ころを拾いに』(宮田珠己、中公文庫)
蟹ブックスさんへの取材中に話題に上ったので購入。そういえばポルベニールブックストアさんとの取材でも話に出たなあ。さらに言うとこれは本書を読んだ後のことだけど尾道の紙片さんが石の展示をされていたなあ(著者とは関係ないけど)。
石については連れ合いに連れられて鉱物フェアに行った時からなんとなく興味はあって科学博物館の展示も観に行ったのだが、本書ではそういったところで展示や販売されるような宝石・奇石ではなく、市場価値とは無関係な自分にとって「いい感じ」の石ころを全国各地に仲間と共に探しに行く話である。
話、と書いたが物語ではない、居酒屋でほろ酔い加減で話されるような他愛もない方の話である。
だが、これがめっぽうおもしろいのだ。まずは石の魅力に気がつき、コレクターに会いに行ったりミネラルショーに行ったりして自身の「石ころ道?」みたいなものに迷いを抱きつつやっぱり無目的に自分の感覚だけでいい感じの石ころを探すのを楽しみたいよね、となるその行動と逡巡の過程が良いのだ。
不真面目でマニアックな『ねじとねじ回し』みたいな読後感と言えよ……いや言えないか笑
『ブックフェスタ 本の磁力で地域を変える』(まちライブラリー)
電子図書館メルマガのコラムで書くために読む。いろいろ参考になること多数。「みんなの図書館さんかく」や「大きなイベントで大勢集めるよりも小さな集まりをたくさん行う方が関係性が深まっていく」といったことなど。
資料として残しておこう。
『図書館の日本文化史』(高田正也、ちくま新書)
こちらも電子図書館メルマガの参考資料として読む。ぼくは図書館史についてはほとんど知らないが戦前までは冷静なように見えた筆致が戦後から急に情熱的になり始め、比例して事実関係に難が強くなっていくように見える。それはもう全然知らない僕からしてもすぐ分かるくらいに。
とはいえ、ファクトチェックできるほど知らないのはたしかなので、頭ごなしに否定はできない? のかもしれない。
事前にSNSやブログで評判を知っていたのは書いておく。こういうのもあるのね。
『H.A.Bノ冊子15』
BSLで連載中の「松永弾正の本屋紀行」を増補改訂した『本屋の周辺』を出版したということで同書と一緒にH.A.B松井さんからいただく。H.A.BのECで買うと付いてくるもので初見である。
『クソみたいな世界を生き抜くためのパンク的読書』の小野寺伝助さんや、友田とんさん、柿内正午さんなど、ここ2,3年にリトルプレス界隈で話題となった著者の文章を読めたのはとても嬉しかった。
なぜかって、読書はマイペースと決めている僕は上記のどの方の本も読んでいないからだ。とりあえず本紙を読んでそれぞれの方の本を読みたくなったので松井さんの狙いは僕においては大成功したと言わざるを得ない。ちょっと悔しい。