エッセイだというので息抜き読書だと思ったら、実は僕の関心分野とも重なっていたので五里霧中の本としておく。
さて、著者の本を読むのは初めてだ。夏葉社から出た『すべての雑貨』はなんとなく読めずにいるうちに2作目のこちらを読むことになった。
著者は西荻窪の雑貨店FALLの店主だ。この店、僕も何度も行ったことがあり素敵な店だったことを覚えている。とはいえ実は買ったことは一度もなくてだからお店のとって僕は良い客ではないのだけれどもまあそれはそれとして良き本であった。
著者が「雑貨」をキーワードに世相やら自身の思い出やらをボヤいていく本であり、吉田健一を読んで以降、こういうボヤいている感じの文体が好きになった、というか自分の休日の気分に合っている、のでちょうど良い気分の本であった。
いかんいかんこれではいつもの息抜き読書になってしまうので、五里霧中らしくメモっていこうと思うのだが、一番気になったのが以下の部分である。長いが引用する。
"芸術文化に淫したモラトリアムな若者が自意識の発露として店をひらく、というライフスタイルのはじまりには、七十年代なかごろに全国で六百軒を数えるまでにふくれあがったといわれるジャズ喫茶があるのはたしかだろう。そこから春樹氏のように物書きに転じる者もいれば、広瀬氏のように多分野で独創的な商いをはじめる才ある者もいた。あくまで集団には属さない孤立した個人プレーヤーとして、彼らはオルタナティブな生きかたをもとめ、大きな資本の濁流から離隔した一本の美しい支川をつくった。しかし時代がくだっていくと、社会をドロップアウトすることや就職しないで生きることの意味はおのずと変わり、反骨のしるしもどこへやら、自己表現としての自営業の譜系もずいぶんお気軽なものになっていった。村上隆氏が「円環が閉じつつある」と書いた意味を、私はジャズ喫茶からはじまったミームが三十年の月日をかけて希釈され、やがて力つきる歴史としてとらえてみたい誘惑にかられてしまう。清らかな支流は、いま泥まみれの資本の大河へと還っていく。つまりそれを、長いながい雑貨化の道程だったと考えてみたいのだ。"
p.39-p.40
p.33の村上隆が著者の書いた雑貨についてのエッセイ(おそらく『すべての雑貨へ』かな)を読んで書いた仮説を受けてのものなのだけれども、これが1970年から30年かけてのものだとすると、昨年春に書いた独立書店史が90年代後半から始まっていることがこう微妙につながっているというか、もしかしたら独立書店的なものに自分の世界を投影して社会とつながる一つの人種が2030年でまたあらたな局面を迎えるということにならないか……なんて妄想を一瞬してしまった。いやちょっと強引過ぎてさすがにないかなと書いていて思ったけれども。