本屋とインターネットを対比したときに、情報のスピードに差があるという話をどこかでしたと思う。これかな。
"僕は、本の魅力は「遅くて長いメディア」であること だと思います。例えばSNSに流れる時間感覚は早すぎて、つい流されてしまう。そういったときに本を読むと、自分のスピードを調整してくれるように感じるんです。"
"日常の時間から切り離してくれる存在として、本の魅力がある、と。
和氣
「一生モノのの何か」を始めるために。借り物ではない自分の言葉を育む読書
いえ、逆ですね。本を読むような時間こそが日常なんです。SNSのような僕らを取り巻く時間は日常ではありません。日常に戻るために、本が必要なんです。"
ここでいう読書の時間的な「遅さ」と早いと思われる「インターネット」がどう繋がるのか。おそらく黎明期のインターネットが夢見たものをもう一度取り戻す的な話かと思いながらも気になっていたので読むことにしたのだった。
読んでみた結果としてはそんな甘いものではなくて、どうしようもない現実をどう変えていくかの方法論とその方法に至るまでの理屈が書かれていたのだけれども、いまのグズグズの日本政治の分析がそのまま為されていて、それが痛快であると同時に絶望でもあって、でも現実認識としては正しいように思うしもやもや考えていたことを言語化してくれたなーということで、うん、つまりは遅いインターネットプロジェクトに参加したいなーということだった。
(ただし、糸井重里の分析についてはちょっと甘い気がする。)
というわけで、勉強不足でいったん要約だけ書いておく。
"うっかり呼んでしまったオリンピックのダメージコントロール」が、来るべき2020年の東京オリンピックの実体だ。"
p.7
いまやダメージコントロールどころか一億総火の玉的状況だけれども。
"残された問題は、シリコンバレーの起業家とラストベルトの自動車工のあいどに再生産されつつあるあたらしい「壁」をどう乗り越えるのかという問題に他ならない。"
p.45から
***以下は気になった部分の要約とコメント
トランプ当選問題の話。グローバル市場で生きていける強い人間をAnywhereな人(境界のない世界の人)、そうじゃない、場所と国に紐づけられた弱い人間をSomewhereな人間(境界のある世界の人)としてそこの間の壁だとしている。(デイヴィッド・グッドハートの区分)
加えて彼らを分つ壁の正体は「世界に素手で触れているという感覚」だという。これはつまり自分たちが世界を変えられるという感覚で民主主義においては一票の重みであり、グローバル市場においては技術とサービスである。
グローバルな市場が浸透した結果、起こったことは世界を実際に変えられるのは技術とサービスなのに、それを持っていないsomewhereな人々は民主主義の一票に縋り付くしかなかなってしまったということでおる。
インターネット、というかSNSは多数決になってしまっている民主主義においてポピュリズムを加速させてしまい自由と平等の敵となってにしまっている。世の中を良い方向に変えるのは技術とサービスなのにそれに追いつけない人々が縋り付くものが民主主義となるので、これをどうにかしないといけない。
とはいえ、民主主義は今のところもっともリスクの低い政治形態であるからして手放すというのも違うわけで、であるならばどうするかといえば「民主主義を半分諦めることで守る」という。
具体的には民主主義と立憲主義では立憲主義側に傾き司法を強める。対症療法的なもの。
情報技術を用いて選挙とデモ以外の政治参加の回路を作る。台湾のvTaiwanが例。目的は政治参加を日常にすることだ。投票もデモも祝祭になってしまって理性的な市民でなくなる可能性があるので、仕事の延長線上に置くなど政治参加が日常の当たり前のものにする。結果、少しずつでも世界に手で触れている感覚を持つ人々が増え、世情が安定するのでは? という話だ。
翻って日本ではいろいろなことがもうだめになってきていてじゃあどうするのか? の答えが「遅いインターネットプロジェクト」になるわけだ。そこに至る理屈が面白くて、吉本隆明から始まり糸井重里を通って、遅いインターネットに至るのである。
吉本隆明があらゆる共同幻想から自立するために対幻想を強化する(家族の幸せ)も空気を甘くみて失敗し、消費で個を自立させようとするも消費が当たり前になって失敗し、
糸井重里が丁寧な暮らしで気持ちのいい侵入角度とほどよい距離感を黎明期のインターネットで提案(初期ほぼ日)するが、社会の貧困化によってそれは中産階級以上のものとして受け入れられてしまうこととなり(上場後のEC化したほぼ日)、果てには当時は機能した「政治的ではない、という政治性」が違った意味で受け止められて"安直で浅薄な"批判がSNS上でまかり通ってしまった(個々の部分、吉本隆明に対しての批判と同様に糸井重里についても湯治は意味があっても現時点ではそれが失敗しているという批判になっていないのが不思議、と思うのだけど誤読かな。どうかな)。
そして"目に入れたいものだけを目に入れ、信じたい物語だけを信じて生きることのできるこの世界は、都合のよい他者と自分をタグ付けし、いわば誰もが胎児のような全能感の中に自閉する「母性のディストピア」"(p.172)になっているのが現代の情報環境だという。
これを超えるために「遅いインターネット」を始める。より良く書く=発信する方法のために、より良く読むために、自分だけのことではなく自分との関係性を記述するために。
……これってもしかして近代的自我の確立の話じゃないのかな。違うのかな。
つまりは「他者とどう繋がるのか」を学ぼうという会である。これは参加せねばである。やっぱり自分とは違う存在との関係性というのは僕もとても気になるところだしそれがもう少し穏やかに良い塩梅で為されたら世界はもうちょっとマシになると思うから。それが本屋をやる(応援する)理由だし。
とそんな感じか。とりあえず吉本隆明と丸山眞男は読まねばということは分かった。知りたいこと多いんだぜ。