今春、江古田に本屋をオープンした「百年の二度寝」さんの連載最終回です。
元書店員がいかにして独立書店になったのか。最終回は所信表明的な文章です。
その6:あの頃の未来に立っている
時系列に沿って私の本屋生活を記述するこの連載。順番からすると今度はこんな未来にしたいという抱負を書くのが常道だけど、私たちに未来はあるのだろうか?
「書店界に未来はない」という言説は、私が書店への就職を考え始めた20年ほど前には既に存在していた。書籍の販売額は1996年にピークを迎えたとされるので、2000年あたりにはまだピークの余韻が残っていたのでは?と思うのだけど、書店や出版の未来について語る人たちの表情は総じて暗かったし、いまの出版業界は「殺される」寸前なのだという内容の本を、みんなが読んでいたりした。
で、20年後のいまも書店の未来について語る人たちの表情は総じて暗く、この業界に未来なんてないという言説はネット上にごろごろ転がっているので、もはや本を買うまでもない。
ここまで延々と「未来がない」と言われ続ける業界というのも珍しい。「活字離れ」に至っては、私がものごごろが付いた頃にはすでに言われていたので、40年選手である。あの頃の未来に僕らは立っており、しかもその未来は「ない」はずの未来。あのSMAPが解散してしまった後に、紙の本を売って生活している人間がこんなに生き残っているなんて、みなさん予想してましたか!?
確かに、これから書店業界が驚異の回復を遂げて、96年を上回る成長を遂げる可能性があるのかと考えると、まずない。私が大型書店にいた2000年代と比べて、書店や出版関係者が置かれている状況がさらに苛烈になっているのも目を背けるわけにはいかない現実だ。
しかし、金持ちではなく、土地や建物も持たず、書店員としての実績も目立つものではない、ただ本屋が好きなだけの本屋オタクが、お店を出そうと思ったら出せる状況になっているのは、確たる事実である。
それが出版業界全体にとってプラスになる変化なのか、そうやって参入してきた私たちがいつまでお店を続けられるのかは未知数だけど、いままでほとんどまかれることのなかった新しい種が、本屋の世界に次々とまかれているのだ。
種をまいてしまった以上、簡単には枯らしたくないし、出来れば実りももたらしたい、あんまり背負い込みすぎるのはよくないけど、責任、けっこう重いのかも、ちょっと胃が痛いです。
自分に手の届く範囲での「未来」についても、語っておくべきだろう。
いまの「百年の二度寝」は古本70%、新刊&リトルプレス30%くらいのバランスなのだけど、いつまでもこのバランスを保っていけるとは、まったく思っていない。
いずれ「古本のウェイトがあがってほぼ完全に古本屋になる」か、「新刊の数が増えて新刊書店に近くなる」のではないかと予想している。そして、「古本」という不確定要素に満ちた商材が関わってくる以上、どちらに転ぶのかは私たちの決めることではなく、商品の動きや、買取がどれくらい入ってくるかと言った状況が、ひいてはひとりひとりのお客様の行動が積み重なった結果決まることなのだと思う。
私は自分の思うとおりに物事を進められないと負荷がかかってしまうタイプの人間で、「二度寝のあるべき姿」みたいな理想も脳内に秘めてはいるのだけど、それに固執しても仕方ないとも自覚している。
お客様と本と私たちで即興演奏をしてるつもりで、投げかけられたものをひとつひとつ地道に打ち返してゆきたい。その結果出来上がった店の姿なら、きっと自分でも好きになれると思う。
百年の二度寝のある江古田は、上京したての頃から縁のある町。今年で住み始めて15年目なので故郷の長崎より長く住んでいることになる。実は、江古田で本屋を始めるのは私たちだけではない。「百年の二度寝」がオープンして5日後には、コワーキングスペース「ぼっとう&よはく」さんで貸し棚本屋のサービスが始まったし、4月11日には「snowdrop」という古本屋さんも開業した。
江古田にもう一店舗書店が開業すると知った時点では、「競合相手」が出来たという認識だったのだけど、同時に三店舗となると、もう、開き直るしかない。今後は3店舗一緒に仲良くやっていくつもりです。「しのばずブックストリート」とまではいかなくても、三店舗一緒にイベントでも仕掛けたいし、その成果を江古田という町にフィードバックしたい。
こうやっての歩みを振り返ってみると、ずっと「本屋」に片思いして来たんだな、と思う。ひょんな事から「百年の二度寝」という場を与えられた自分は、驚くほど幸せな人間だ、とも。
その幸せを一時のものには終わらせたくはないし、お店を訪れてくれたお客様にも少しずつおすそわけしたい。本屋であり続けるために、私たちは今日も江古田の片隅でお店に立っています。