台湾と日本のデザインの違いとは?
前回の記事では、台湾ブックデザイン最前線の第2部まで。台湾からお越しになった聶永真(アーロン・ニエ)さん、何佳興(ホー・ジァシン)さんの講演までをまとめた。
今日の記事では色部さんと松下さんも加わって、いよいよ4名で話すシンポジウムの時間をまとめる。日本のデザイナーと台湾のデザイナー何が同じで何が違うのだろうか?
登壇者紹介
- 聶永真(アーロン・ニエ)さんのFlikr
- 何佳興(ホー・ジァシン)さんのやっているレーベル Timonium lake としてのブログ
- 何佳興(ホー・ジァシン)さんの紹介記事
- 色部義昭さんの個人事務所「色部デザイン研究室」サイト
- 松下計さんのwikipedia
- 藤崎圭一郎さんのwikipedia
環境がアウトプットを規定する
長いので結論から言おう。「環境がアウトプットを規定する」。前職の総務時代でも常々感じていたことだがひとは環境によって知らず知らずのうちに行動も感じ方考え方すら変わってしまう。アフォーダンスという言葉やドイツ映画の『es』を調べると分かりやすい。ましてや、それが違う国となれば違いは大きなものになるだろう。
つまり、台湾と日本は土地も違えば気候も違う。住む人も言葉も市場も違う。
そういった総体的な環境の差によってデザイナーが出すアウトプットが違ってくるだろうということだ。
例えば、同じテーマを与えられたとして果たして台湾で同じデザインができるのか。
おもしろかったのが話の中でドキュメンタリー企画が生まれたこと。
同じ年齢の日台デザイナーが日本のデザイナーは台湾で、台湾のデザイナーは日本でデザインをしたときにどういうアウトプットをつくるかというドキュメンタリーをつくってみたい
こういった企画をしていくことで日台の出版市場を統合できないか、というアイデアも出ていた。ぜひ実現して欲しいアイデアだ。
さて、そうなってくると重要なのは日本と台湾の差である。ブックデザインではどんな差があるのだろうか。
日本のブックデザインはシステマチック
アーロンさんから見て、松下さんと色部さんのデザインはスッキリしていて完璧を目指すデザインだがどこか温かい、と感じるらしい。
ホーさんも
色部先生のデザインは、すべて厳密で細やかに組み立てられていっている感服した。小さなことでもていねいに取り組んでいて、そこから大きなものを作り上げるということが良いと思っている。
と言う。
これに対して、色部さんはこう言っている。
日本はオーディエンスと作り手の距離が遠く、オーディエンスの反応が掴みづらい。そうなるとどうしても市場全体に向けてつくることになり、そのためにはシステムを組む、といった感触になる。パーソナルな方向性に向かうことが難しい。
では、台湾のブックデザインはどうだろうか。
台湾のブックデザインはポエティック
色部さん曰く、
アーロンさんとホーさんのブックデザインはポエティックでロマンチック。そういう感触は独りよがりになりやすいのでとても難しく、たいてい失敗するのに、アーロンさんとホーさんのお二人はこれを自然にやっている。二人がつくっているデザイン言語は説明なしで伝わってきた。
とのこと。
さらに、松下さんは
台湾のデザインは感情的で、スピリチュアルな印象を受ける。日本では社会的な根拠が必要になるが、台湾では自分の中の根拠が重視されるように感じた。
読者の私事とデザイナーの私事を共鳴させる仕事のやり方が台湾では成り立っている。実は、日本も以前はそういう世界だったんじゃないか。
と言っている。
この最後、”日本も以前はそういう世界だったんじゃないか”。というのがぼくの中で引っかかった。
なぜか。それは以前の日本、まだ上り坂の時代の日本では個人同士のやり取りで仕事が成り立っていたが今はシステマチックになっている。対して、台湾はいま現在上り調子の社会で、個人同士のやり取りで仕事が成り立っている。
これは社会が成熟しているか否か、という話かもしれない。でも、ぼくはこう考える。上り調子の時代は個人が大きなシステムに介入できたし個人がシステムに反映されることもあった(だから、個人同士のやり取りに意味があった)。
だが、システムが出来上がってしまった社会ではシステムに必要とされないことは仕事にならないし、小さなシステムを作り上げることで大きなシステムに奉仕することしかできない。主体が個人ではなく社会の側になってしまう。日本と台湾のデザインの差はそういう状況の示唆なんじゃないか、ということだ。
まったくの妄想だろうけども自分の感触では結構良い線いっている考えだと思うのだがどうだろうか。
さて、話を戻そう。
台湾のブックデザインはポエティックでスピリチュアルで個人的であるとして、なぜそれが可能なのか。台湾の二人はこう言う。
なぜ台湾のブックデザインはポエティックなのか?
ホーさん
台湾は一見して多様性に満ち可能性に溢れているように見えるが実際にそういう部分は多い。例えば、台湾でちょっとでも自分の声を出せれば可能性があると思う。
しかし、僕らの世代(40代)は自信がない。欧米や日本のものを見ると、台湾は劣っていると思ってしまう。これをモチベーションにして、感情的な部分で自信を得たいからモノをつくっている節が自分にはある
欧米や日本のデザインに対する劣等感があるというだが、これはいったいどういうことだろう。劣等感から良いデザインが生まれるのだろうか。
アーロンさん
自分の学生時代を思い返すと、日本のものを参考にしていたりする。10数年前から台湾でブックデザインが盛り上がってきたが、そのときに参考にされていたのも日本人デザイナーだ。
だから、デザインがどこか日本っぽくなってしまうという状況がある。
それを問題意識として持ち、台湾人のアイデンティティとして日本のデザインとは違ったものを出したいという流れがある。
このときに「感性からスタートする」というのが一個のキーワードな気がしている。
つまり、劣等感を払拭するために、アイデンティティを得るために、「感性」、松下さんの表現で言えば「ポエティック」ということだろう。それが必要だということだ。
なぜ台湾のブックデザインはポエティックでいられるのか?
ポエティックなデザインが必要とされる状況はわかったが、だがそれでも、「それに(社会的な)何の価値があるの?」と言われたらできないだろう。なぜ個人が重視されうるのか?
台湾の二人はこう言う。
アーロンさん
台湾のデザイナーは量産本で誤差がないものをつくっても面白くない。ちょっとの誤差が個性と感じる。だから誤差がつくれるデザインをしたい。
そう考えたときに台湾のデザインに関わる人間はほぼ台北で集まっているのでコミュニケーションを取りやすいということが大きい。コミュニケーションを密に取れるので、2,000〜3,000くらいの冊数までは時間とクライエントが許せば問題ない。
ホーさん
台湾のデザイナーにはただただ良いものを作りたいひとがたくさんいて、そういうひとは個人としてのコストは惜しげもなく使う。
そういうデザイナーと出版社の間に共通の認識があれば一緒にやれる。逆を言えば共通の認識がないと刊行には至らない。もちろんお互いのコストを使って歩み寄っていくというのはあるが。
共通の認識。
なるほど。一見、ハチャメチャなプロジェクトでも発起人の情熱が伝われば動かされるひとはいる。そのときに大事なのは会って話すこと(イベントをいくつか企画開催したときにそのことは身を持って知った)で、デザインに関わるひとが台北にまとまっていることは大きい。コンパクトであるからこそ発起人の思いが伝わりやすく情熱を保ち共有しながら刊行に至ることができるのだ。
登壇者の日本人2人は『T5』のために台湾に行っているのだが、松下さんはそのときの印象を
台湾はデザイナーにとって面倒な手作業を乗り越えるハードルが低い印象。全体的に手が達者。そして、手作業をする環境を整えやすいような事務所の雰囲気がある。さらに加えて、小さいけれどいろいろなものがたくさんある台湾の雰囲気。
と言っていた。効率や短期的な結果から離れた手作業に対して、台湾のほうが寛容だということだろう。
台湾におけるグラフィックデザイナーの地位は?
シンポジウムも終盤に近づき、時事も含めた話題に。
色部さんがオリンピックロゴ問題に軽く触れつつ、台湾でのグラフィックデザイナーの社会的地位がどういうものなのか聞いたのだ。アーロンさんは台湾のセブンイレブンのカップに名前が出ていたり、選挙に協力するなど露出が多く有名人。台湾のほうがグラフィックデザイナーの地位は高いように思うようで。
これに対してアーロンさん
ほかのデザイナーと比べてグラフィックデザイナーは弱者だし報酬も低い。
私は幸運にも有名になる時期が早かったので、知名度で宣伝をうまくできないかというやり方ができるだけだ。
自分のビジュアル言語をどうやって広められるか、が自分のやることで、だから選挙にも協力している。
このイベントの後、しばらくしてから他の方から聞いた話だが、アーロンさんが飛び抜けているだけで他のグラフィックデザイナーの地位は日本よりも低いとのこと。なぜ低いのか。これはこれで考えないといけないことである。
また、ホーさんによると
台湾のグラフィックデザイナーの地位は変化の最中だ。最近、ブックデザインが盛り上がっているが、グラフィックデザイナーの職責を定義すること自体が台湾ではまだ難しい。事態は流動的だ。
自分の創作で台湾の人たちといかにコミュニケーションするか、それをどうやって持続させていくかを考えなくちゃいけない。
なるほど。この言葉を聞くにむしろ台湾では社会的地位以前の問題で「グラフィックデザイナーって何?」という段階なのかもしれない。日本でもそういう方が思ったより多いことがオリンピックロゴ問題で発覚したが、グラフィックデザインでお金を取るということはそんなに想像しにくいものなのだろうか。いつもそこが不思議なのだが。
個人と社会 主体をどこに置くか
最後に、モデレーター・藤崎圭一郎さんの師匠格にあたる方が質問されて閉幕となった。
大変に示唆に富む内容だったが長いので箇条書きにすると、
- ウェブが広まった現状では情報としての本は価値がなくなっていく。
- モノは既に溢れている中で無駄なものを作ってはいけない。
- 台湾と日本の共通点である漢字に着目しながら、東洋人としてどう考えるか。
- その結果ではなくどのように考えたかの過程を日本と台湾で共有していくと良いだろう。
先日の台北ブックショップツアーでも感じたことだが、台湾と日本では近い部分が多く、だが、まったく違う部分もしっかりある。そのバランスが絶妙で、だからこそ差異を認め合いながらあたらしいものを共に作り上げる可能性があると感じた。
ウェブがある現状では距離による認識の差は少ないはずで、だとすれば「モノは既に溢れている中で無駄なものを作ってはいけない」という認識はぼくも含め多くの人が思っていることだろう(ナガオカケンメイのD&DEPARTMENTとか)。
そう考えたときに、台湾のポエティックなブックデザインは重要だと感じた。なぜなら、個人に主体を置くものは代わりがきかないからだ。対して、システムや社会に主体を置くものはそのシステム(社会)の中ではいくらでも替えがきく。替えがきくものは個人が作るよりは大きい組織が作ったほうが効率がよく、ここにおいて個人が物をつくる意味はなくなってしまう。
だからこそ、台湾のポエティックな感覚を日本は取り入れるべきなのかもしれない。