以前の独立したときの記事がやけに反響をいただいて嬉しいばかりなのだけれどもあれから2ヶ月以上経って、独立してからはじめての年末。年の瀬といえば振り返り、ということで、以前の独立したときの記事を補足するという意味でも、いまぼくが本の世界に対して思っていることをまとめておくことにする。
ずっと出版不況
出版不況と一口に言うけれど、実は出版市場は1996年を頂点にずっと右肩下がりなわけで(以下のサイトとか調べればソースはありますよ)。
で、頂点の前と比べると頂点前後が異常なだけでそもそも1996年前後が異常だっただけなんじゃないかとも思っちゃうんだけれども、それはそれとして、出版市場が小さくなるということは、そこに多かれ少なかれかかわっている本の世界のひとたち(広義の出版業界のひとのこと。読者を含む)が困ってしまうということである。
じゃあ、売れないことで何が起きるのか。それを受けてどうしていきたいか。せっかく独立したことだし、今さらだけれども、考えの整理のためにも書いてみる。
(あくまで考えの整理なので、冗長に過ぎる点があるかもしれないがご容赦願いたい。)
本が売れないと困るひと
まず、何が問題かというと出版市場が縮小すると困るひとが多いということだ。で、この困るひと。つまりは、ステークホルダー(利害関係者)は誰か。思いつく限り挙げてみると
- <会社単位>
- 出版社
- 取次(本の問屋)
- 本屋(長期的には古本屋も)
- 印刷会社
- <個人単位>
- 著者(小説家、ノンフィクションライター、評論家、研究社、写真家などなど)
- カメラマン
- イラストレイター
- デザイナー(などなどクリエイター)
- 編集者
- 読者
- 上記会社の社員
こんな感じ。
これらが全員困るわけだ。
なぜ出版市場は縮小しているのか
じゃあ、そもそもなぜ困ったことになっているのかの要因もざっと挙げてみる。
- 可処分時間の奪い合いに負けている(ゲームとかLINEとかブログとか)
- 雑誌が売れなくなった
- 売る場所が少なくなった(本屋の数自体が減少している)
- コンテンツにお金を払うという概念が薄れつつある(フリーミアムモデルをとか)
こんなところだろうか。活字離れとか読書離れとかそういうのを理由として挙げないのは、永江朗氏の『「本が売れない」というけれど』にもある通り嘘だし、厳しい状況を分析するのに複雑な要因を無視して感覚論で言っているだけであると考えるからだ。
本が売れないことと読者がいないことは一致しない。一番想像しやすい因果関係というだけだ。
また、出版業界の構造不況というテーマについては、出版状況クロニクルなど詳しいところがあるし外部のぼくが何を書いても不正確になってしまうので触れないことにする。
(というか構造不況って昨日今日言われた話じゃないしずっと言われてきて治らないってことは何かしら残る意味があるわけで、その構造が良くないと思うなら違うやり方をやれば良いという話なんだけども、それはここでは置いておく。)
その上で、考えた縮小の理由が上記の4点。
どれも
「本以外の娯楽が増えたよね→持ち運びやすさとか値段とかの面でも本より手軽なものが増えたよね→じゃあ、そっちをたのしもう」
って流れで、結局、ウェブのもたらす影響をもろに受けているってことになる。
ウェブの特性
じゃあ、ウェブの特性って何よ? って話になる。
生まれた当初は情報共有のしやすさとか場所を選ばないとかコピーし放題とかだけだったと思うんだけど、ガジェットの進歩もあって際立ってきているように思う。そこであらためて今現在のウェブの特性を思いつく限り挙げておくと
- 早い
- 安い(または、無料)
- 軽い
- 拡散しやすい
- 複製しやすい
あと思想として「水平構造を好む」とか「透明性が大事」とか「楽観主義」とかある(のかな? これはぼくのウェブっていう思想に対して持っているイメージ。ハッカー文化みたいな)。
ハッカー文化の根底には、親切で大らかな博愛精神が脈々と息づいており、時に宗教的ですらある。その原因は、他人に影響を与え得るハッカーの多くが、その実において人間的にも親しみやすく、技術を独占するよりも広く共有して、皆で大いに楽しみたいとする奔放さを持っている事にあると思われる。
往々にして意固地で他人の知識を吸収しても他人には与えたがらない種類な人間のライフスタイルは、他人の嗜好の問題から単純に広まり難いだけではなく、そのような人間の周りには人も金も知恵も集まらずに素通りしてしまうために能力的上限が発生して、あまり注目されない結果に陥る可能性も考えられ、結果として選択的に博愛精神が培われたと思われる。
で、まあ消費者として娯楽を楽しみたい人は気楽で気軽で安い方に流れるのは当たり前である。となると、娯楽がなかった時代に娯楽として本を読んでいた層はウェブに取られちゃう。
何が残ってる?
本がそこに勝つためにはウェブの特性ではないものを出せば良いわけで、それは
- フェチ性
- 権威性
- まとまった情報量と文脈(一覧性も含む)
といったところかなあ、と思う。
フェチ性は物としての本の良さを押し出すことだ。装丁をこだわったりインテリアとして見せたりそういうこと。ウェブは物じゃなくて情報なのでここは競合しない。
権威性は昔はあったみたいだけど今は微妙かなあ。
「本をまたいだら怒られる」とか「本を読んでたら頭が良さそう」だとか昔はあったのかもしれないけど今はあんまり思わないしなあ。むしろ、ひとつめのフェチ性と合わせて「読んでたり持ってるとオシャレなもの」って感じになりつつある気がする。これは雑誌の読書特集とか栞子さんとかの功績が多いのかも。
いまはむしろウェブを使いこなす方が頭が良いというイメージを持たれそう。
まとまった情報量と文脈(一覧性も含む)というのはディスプレイと習慣の問題で、ウェブでは同じ記事を何万文字も読むのに向いていないということがある。
電子書籍元年のときは電子書籍が取って代わるような気がしていたけど今のところそんなことなさそうだし。
ある程度まとまった分量を読むのに適したものは今のところ紙の本が一番だろう。
これって逆に言えば、物としてチープなもの、オシャレじゃないもの、内容がライトなもの、情報量が少ないもの、一覧性のないものは危ないということだ。
(ただし、オシャレだけど情報量が少ない「文鳥文庫」などの試みはある。)
具体的にはどうしたら?
どこを攻めれば良いか分かったけど、じゃあ具体的にはどうしたら良いかって考えてみよう。
- 凝りに凝った装丁の本をつくる
- もしくは持ってることがオシャレな装丁の本をつくる
- 中身がしっかりした本をつくる
ってこれ「ちゃんとした本をつくる」ことに尽きてしまって、それって今までもいっぱいやってるひと(ひとり出版社を筆頭に大小問わずいくらでも)いるし、それでも大変なんだよねーって話が現状追認になってしまうなー。
結局、売り方の問題?
ということで、結局フリダシに戻っちゃったわけだけども、いままでで触れていないことがある。
それは売り方の問題だ。いくら本が良くても売れなければ食べていけない。いくら売れても本が良くなければ本の世界は豊かにならない。
つまり、「良い本が売れる」という状況が必要なわけである。
じゃあ、どうするのかって話だけども、これも考えてみると、
- 本との出会いの場を増やす
- 本との出会いの場を演出する
- 本を買わなければいけない理由を演出する
とまあ、つまりはマーケティングやマーチャンダイジングをもっとやりましょうよって話だけれども、既に具体例はたくさんあって、「niko and… TOKYO」や「URBAN RESEARCH DOORS」、「DELGONICS」などのようにアパレルショップや雑貨屋に本が置かれるようになっていたり、「STORY STORY」や「スタンダードブックストア」、「蔦屋書店」、「HMV & BOOKS TOKYO」などのようにライフスタイルという観点から店舗をつくったり、一箱古本市が各地で増えていたり、本屋でのイベントが増えてきたり、そのイベントが体験型になってきていたり、「BIRTHDAY BUNKO」のような今までにない売り方だったり。
- 本屋探訪記vol.106:雑誌のように生まれ変わる。「niko and … TOKYO」
- 本屋探訪記vol.17:大阪茶屋町のセレクトショップ「アーバンリサーチドアーズ 茶屋町店」には本棚がインテリアとして売られていた
- DELFONICS
- STORY STORY
- 本屋探訪記vol.16:大阪心斎橋「スタンダードブックストア心斎橋」は最高の本屋さんだ
- 蔦屋書店
- HMV & BOOKS TOKYO
- BIRTHDAY BUNKO
つまりは、今まで書いてきたことは本の世界の人は意識的無意識的に当然気づいていて、どうにかするための策をずっと実践してきているということである。その上で、ずっとしんどい状況だということだ。
で、ずいぶん長かったけれどここまでが現状認識である。
ここからは、じゃあその上でこれからどうしたいのかについてもこの機会に書いておこう……と思ったけど長くなったので、また次回。
(ここまでは、以前の独立したときの記事について、何でこう思うようになったのかの補足のようなものでもある)