本稿は、鳥取県立図書館にレファレンスを依頼し、その結果を使用しました。この場を借りて感謝申し上げます。
鳥取県で3番目の都市、倉吉。駅からバスに乗り、赤瓦と白壁の土蔵が立ち並ぶエリアへ。その一角にある倉吉淀屋の近くに、今回訪れた倉吉ブックセンターはあります。数年前から倉吉に行ってみたいと思っており、タイミングよく安い航空券を確保できたので、2023年本屋巡りの1軒目に選んでみました。
店に入る、その前に外で日向美ビタースイーツ♪の霜月凛がお出迎え。本屋の娘なので、ここにいるのでしょう。ここ以外にも倉吉には日向美ビタースイーツ♪のメンバーがいるので、訪れる予定のある方は探してみるもいいかもしれません。
改めて、店に入る。店内はとても綺麗で、正面の平台と左右の棚で構成されていました。入ってすぐの平台には本屋に関する本。『街灯りとしての本屋』が面陳されていました。奥付に自分の名前が載っている本が面陳されているのは、直接本に協力したわけではないですが、かなり嬉しいものです。
左側は文学など。古本が多めでした。『本の雑誌』のバックナンバーが数冊挿してありました。右側の棚は新刊が多め。鳥取に関する本やこちらにも本屋や出版に関する本が。個人的に『神田神保町とヘイ・オン・ワイ』があったのは驚きでした。また、伊狩春夫の『古本中毒』もありました。
ある程度物色して会計のタイミングでお話を。今やっている場所ではかつて別の商売をやっていたらしく、本屋としては、倉吉駅近くのパープルタウンでやっていたとのこと。その後しばらくして現在地へ移転したとのことです。
パープルタウンは倉吉駅から歩いて10分くらい、バスで2つ目の山根地区にある地場のショッピングセンターです。こちらでまず本屋をやっていたことについては、朝日新聞の2020年4月27日版記事、「「見せる本屋さん」紡ぐ物語」に「父の代にパープルタウン(倉吉市内のショッピングセンター)にテナントとして本屋を出店しました。」という店主の証言があります。
当初、パープルタウンで本屋をやっていたことについて、山陰地方の地方紙である日本海新聞の1981(昭和56)年11月27日号にパープルタウンオープンの広告があり、そこのテナント一覧に、「2F 書籍 倉吉ブックセンター」の記述があることが確認できました。ここからたしかに倉吉ブックセンターはパープルタウンで営業していたことがわかります。
このパープルタウン、日本海新聞の1981(昭和56)年11月28日号にオープンを報じた記事があり、そこには「商圏は中部十二万ばかりでなく東は気高町浜村、西は西伯郡中山町までの十六万人に照準をあて、年間六十億円を見込んでいる」とあり、倉吉における非常に大きなプロジェクトであったようです。パープルタウンについて、当時の関係者の回想録のようなものが、『商店界』(誠文堂新光社)に広瀬勲「地域主導型SC開発の実際」という連載にまとめられています。
この広瀬の連載によると、パープルタウンの始まりは「八年程前であった。倉吉の小売商が集まって、商店街の近代化と大型店誘致構想を計画。」とあり、おそらく1973~74年くらいには大型店舗の構想があったようです。また、当初は山根地区ではなく、倉吉市の別の所に計画がされていたようです。
この時誘致しようとした核となる店舗は「米子やよい」「ジャスコ」「ほていど」(おそらくホテイ堂か?)の3箇所。この内米子やよいは「ダイエーのFC」とあり、店主が話してくれた、「ダイエー」という発言と合致しそうです。この誘致合戦にて、「ほていど」を主張した人物を中心に、「米子やよい」に反対したメンバーが集まり、上井(現在の倉吉駅周辺)へ出店地を替えたようです。
これがパープルタウンの始まりとなる「倉吉SC」のメンバーで、この中に、「雑貨店「円谷」の円谷」なる人物がいたことが、広瀬の連載にて確認できます。倉吉ブックセンターの店主の名字も「円谷」であり、朝日新聞の記事に「明治40年の金銀出入帳によると、米屋だったようです。おじいちゃん、父、と生活雑貨の卸問屋をしてきて」とあり、もしかすると、この記述と合致するのではないか、と推測しています。
かつてやっていた本屋について話している間に、倉吉淀屋の話も話題に挙がりました。内容としては大阪の淀屋(中之島の開拓を行った)が闕所する前に、番頭の牧田仁右衛門に暖簾分けという形で倉吉で店を開かせ、闕所後しばらくし、牧田仁右衛門の子孫が最終的に大阪で淀屋を復興させるという話。「淀屋」の名前は京阪の大阪側起点や今でもかかっている淀屋橋として大阪に残っています。また、倉吉は稲扱千刃のシェアがかなり大きかったのは、倉吉の淀屋の主力商品だったため、という話。
最終的に幕末に淀屋は商売をたたみ、残された資金をすべて朝廷へ寄付した話など。これらは倉吉淀屋の展示にて確認が可能です。また、倉吉淀屋にて、淀屋に関して研究をしていた新山通江という人物のことを知りました。淀屋に関する本は折を見て確保して読んでみたいと思います。本屋や淀屋の話を通して、「街の記憶を残す」ことがやはり大切だと、改めて思うようになりました。
本屋の話ではないですが、倉吉ブックセンターでは智頭杉を使った鉛筆を売っています。また、棚に挿してある1冊の本、これは非常に薄くした杉を裏打ちして製本したノートで、一時期店で売っていたそう。今はサンプルの1冊しかないようです。
杉を装幀で使った本に関連して、本には「データ(内容)」と「マテリアルとしての本」の2要素があって、今後これが二極化していくのでは、という話をしていきました。データを閉じ込める装幀を、その地域で取れる杉でできたりしたら、また違った本ができるのではないか、など思っていました。あと、木を使っているので匂いを閉じ込めれば、など思っていたのですが、どうやら裏打ち段階で匂いが飛んでしまうとのこと。
この翌日に鳥取県立図書館にて、『鳥取県普通電話番号簿 大正十五年七月一日改』(広島逓信局)の倉吉部分を確認してきました。この資料は、鳥取県立図書館に収蔵されている最も古い電話番号簿(電話帳)です。倉吉の部分で書籍に関わっているのは、「三八 桑田信蔵 同、東仲町 書籍部」、「一九 徳岡長蔵 優文堂 同、西町 書籍文具商」、「二六四 野島勝次郎 同、餘戸谷町 書籍、文房具商」の3つ。この内、桑田と徳岡については、『鳥取県職業別電話帳 昭和57年3月20日現在』の「書籍・雑誌・貸本」の項に記載が確認できました。
徳岡の徳岡優文堂については、西町以外にも上井店、銀座店、宮川町店とあわせて4軒を展開していたことも確認できます。東仲町の桑田書店については、住所が「東仲町2582」となっており、現在の赤瓦十二号館の位置にあっただろうと推測できます。また、『鳥取県普通電話番号簿 大正十五年七月一日改』を確認すると、桑田合名会社の書籍部のような書き方で、この桑田合名会社はおそらく、現在も倉吉市東仲町で醸造を行っている桑田醤油醸造場に関係あるのではないか、と考えています(「桑田合名会社」に「呉服、生絲、醤油商」との記載があるため)。
また、徳岡優文堂、桑田書店の両者は、1986年に発行された『ブックストア全ガイド 出版流通インフォメーションⅠ』(新文化通信社)と1992年に発行された『ブックストア全ガイド92年版 出版流通インフォメーションⅠ』(アルメディア)にも記述がありました。いつ頃までやっていたのか、倉吉の住宅地図や電話帳を調べていないため現時点では不明ですが、この時点では66年ほど営業をしていることは確認できました。徳岡優文堂について、前者では西町の他に昭和町、宮川町、上井にも出店していたことを確認(『鳥取県職業別電話帳 昭和57年3月20日現在』と同様)しましたが、後者では西町の店舗のみ記載がありました。
一方、桑田書店については前者では東仲町のみでしたが、後者では西倉吉にも出店していることを確認しました。ちなみに、取次については徳岡優文堂は日販、桑田書店はトーハンと日教販を使っていたようです。『全国書籍商総覧 昭和10年版』(新聞之新聞社)を確認すると、倉吉の本屋では徳岡優文堂が載っていました。どうやら徳岡長藏という人物が1874(明治7)年に創業したようです。「徳岡長藏」の項で、本店の開店については「同町に小學校設立さるゝに至るの機運に會し、明治七年現地に書店を創業」、支店については「昭和八年三月徳岡直吉氏名儀にて倉吉女学校前に支店を設置せり」とあり、いずれも学校設立が一つのきっかけになっていたようです。
この徳岡長藏、「鳥取縣書籍雑誌商組合略史」(『全国書籍商総覧 昭和10年版』所収)を見ると、「目下の處、今井、徳岡、山本の三名が各々縣下の業界を牛耳ってゐる現状」とあり、鳥取県内でもかなり有力な書店だったようです。ここに書かれている「今井」は米子の今井兼文(今井郁文堂、後の今井書店。今井の説明は島根県の項目に「合名会社松江今井書店」で載っている)、山本は尚文館書店を営む山本鐵太郎なる人物のことです。この他にも現在も鳥取市内で営業している横山書店(開光館)の横山敬次郎も組合長に就任していた時期がありました。鳥取、倉吉、米子の各都市から輪番で組合長を出すのは、どこか一都市に集中するのを防ぐためかもしれません。
その他、徳岡優文堂については『日本出版大観』(出版タイムス社)を確認すると、「元来徳岡姓は封建以来の土地の豪家でその本家は酒造業を営んでいる」とありました。倉吉に行った際、まきた旅館(大正時代から旅館を営んでいる。『鳥取県普通電話番号簿 大正十五年七月一日改』だけでなく、1913(大正2)年に発行された『帝国旅館全集』(交通社出版部)にも記載がある)の近くに徳岡茶舗という店があり、少しだけ調べてみると、倉吉観光情報のページに「安政元年創業の老舗茶屋」とあり、この徳岡茶舗が徳岡優文堂の本家にあたるのではないか、と思ったりしています。
全く関係ない余談ですが、まきた旅館にて、『鳥取県普通電話番号簿 大正十五年七月一日改』を肴に話を伺うことができました。大橋旅館という旅館が倉吉にあり、これは現在三朝温泉にある旅館大橋だということなどなど。ここは一度きちんと戦前期の電話番号簿も調べ(旅館大橋のHPによれば三朝の建物は1932(昭和7)年完成なのでその前後)、宿泊含めて実地確認をしたいところです。温泉入りたいですし。
他にも当時倉吉にはブックランド朝倉、ブックハウスやまね(山根)、ブックハウス山本などの本屋や、倉吉富士書店(米子今井書店と経営統合した富士書店か?)などがあったようです。ショッピングセンター内にあったであろう本屋は、サンピア博文堂、ジョイニー書籍部と倉吉ブックセンターでしょう。倉吉ブックセンター以外どの本屋も今はないようですが、倉吉富士書店のあったところの近くには、現在今井書店倉吉店があるようです。
この辺は、また倉吉を訪れた折に調べてみたいものです。本来ならば腰を据えて調べなければならない事項なのですが、自分の体は一つしかないので、どのように調査を進めていこうか、と悩みどころです。
この他、金沢文圃閣の『出版流通メディア資料集成(三) 地域古書店年表―昭和戦前戦後期の古本屋ダイレクトリー』には倉吉に伊藤誠文堂なる古本屋が倉吉市堺にあったようです。
徳岡優文堂について調べている時、「ちくわのくいさし」というブログの「「東伯文庫」の詳細を知りたい!」という記事を見つけ、「東伯文庫」なるものが倉吉にあったことがわかりました。
現地でこの事実を知っていたらすぐさま鳥取県立図書館へ駆け込み調査をしていたのですが、これを知ったのは自宅で書いている時。東伯文庫について、鳥取県立図書館へ記載のある文献と収蔵されている電話帳での記述確認のレファレンスを依頼しつつ、「大橋二郎」なる人物の調査を行いました。
電話帳の記述確認は本来筆者が時間をかけてやるべき内容であり、怠慢ではないかとの指摘があると思いますが、ご容赦ください。鳥取県立図書館と倉吉での現地調査をするために、今すぐにでも鳥取行きの飛行機に乗りたいとは思っているのですが……。依頼からたった3日で調査に必要な満足行く回答が届き(前にも依頼したレファレンスもかなり早く回答が届いた)、レファレンスにかなり力を注いでいると感じました。
レファレンスで出していただいた『私の交友抄』(朝日新聞鳥取支局)に大橋二郎の話が載っており、このような記述を確認しました。「本屋にはまだ本が余り出回らなかったそのころ、株式会社東伯文庫を設立、徳岡氏が社長となった。株主二十人ばかりが、それぞれ蔵書を出し合って貸本業と喫茶店を開いた。」
この「徳岡氏」というのは徳岡松太郎という人物で、『全国書籍商総覧』の「優文堂支店 徳岡直吉」に「長男松太郎」とあることから、徳岡優文堂の一族であることは間違いありません。鳥取県出版物小売業組合の代表や倉吉商工会議所の会頭も務めたようです。
大橋によれば東伯文庫は戦後開いた貸本屋であることがわかりました。さらに、『鳥取県大鑑』(山陰日日新聞社)の「大橋二郎」を確認すると、「倉吉大橋旅館を相続経営の傍ら昭和二十一年株式会社東伯文庫株式会社に就任」とあり、東伯文庫は1946年には存在していることがわかります。また、国会図書館のプランゲ文庫に収蔵されている『日本國憲法』は東伯文庫出版部の発行で奥付の年次が1946年となっていることからも、たしかに戦後東伯文庫があったことは確実です。
また、大橋は「やがて本が出回るようになって貸本をやめ、喫茶だけを残したが、今日の倉吉経済クラブがここで生まれることになった。」とあり、どこかのタイミングで貸本をやめたようです。そのためなのか、『1965年版 倉吉商工年鑑』(倉吉商工会議所)では貸室業として記載されていました。
余談ですが、『鳥取県大鑑』の「大橋二郎」にて、倉吉の大橋旅館を営んでいたことがわかりましたが、三朝の大橋旅館は兄の大橋一男が営んでいたことが、『鳥取県大鑑』の「大橋一男」で書かれていました。徳岡優文堂、東伯文庫、大橋旅館は今後じっくり調べてみたい話題ではあります。
今回買った本は『本の雑誌 2021年5月号』。倉吉ブックセンターが「いま行きたい! 全国独立系本屋112」に掲載されているため購入。普段『本の雑誌』を買うことがないですが、色々と資料として使えそうだと思う1冊です。『本の雑誌』、歴代の本屋関連記事だけを集めた本が数冊あったら資料として買いたいですね。