著者について

面白い考え方だ。

このロジェ・シャルチエの講演をもとにした記事によると、作者や著者といった概念が生まれたのは結構最近のことで、特にオリジナリティーを重視するような考えはここ2,300年の間で生まれたことで、そんなに強固な思想ではないのではないかというようなことを言っている。

オリジナリティーは、活版印刷により個人の生活に印刷物が強く結びついたときに発生した。それは作品を原稿にまとめる「著者」と著者と読者を結び付ける「出版社」や「編集者」を生み出した。

「出版社」や「編集者」は、「著者」というブランドを作品に貼り付ける。その過程でブランドが初めに生み出した手書き原稿が重視され、そこにオリジナリティーなるものがあることになる。
手書き原稿には校正や編集の後があり、そこに手を加えることは記録を残さずには不可能だ。だから、手書き原稿は唯一無二(オリジナル)でありオリジナリティーがそこにはあるのだ。

で、記事の前半部分をまとめてみたけど重要なのは後半で、原稿がデジタル化されることで(少なくともぱっと見は)誰もが後を残さずに編集することが出来るようになる。そうなるとその原稿からオリジナルなものは無くなりいくらでもお手軽にコピー可能なものになってしまう。

すると、どうなるか。
ここからは記事投稿者の私見だが、「著者という概念が重要ではなくなり、「ネット上にある無数の情報を時代に合わせて編集し演出する者たち」(記事上では違う表現)が重要になっていくのではないか」と言っている。

面白いのがツイッターのまとめサイトを例として挙げているところで、確かにツイッターの無数のつぶやきを意図的に編集することで、呟いた人々が思いもよらなかったストーリーが浮かび上がるということもできるのかもしれない。

ここからは僕の私見だけど、記事投稿者の私見はそういうこともあり得ると思うけれど、記事上のシェイクスピアの例のように、著者集団のような形になって少なくともしばらくの間「著者」という概念は残るではないかと。

やはり「本」というパッケージが好きな人たちが現在一定数いるのは事実だし、記事投稿者の言う通りに進んだとすると物語は消費するだけのものになるのではないかと思ってしまう。それに変化することが前提の文章だとすると常に現在進行形の文章しか生まれなくなる。

内容が「不変」であることが物語の重要な要素の一つだと思うから、どこかで変わらない境目を担保しなければいけないようにも思う。だから、何が言いたいのかというと、「少なくとも物語においては記事投稿者の言うようなやり方は適さないのではないか」ということ。

・・・どうも僕は「本」というパッケージが好きな人なので、記事投稿者が言っていることは想像したくない未来だと思ってしまっているなあ。だから、それを割り引いて考えると、ケータイ小説の例もあるし、冷静に考えると記事投稿者の言うような未来が来るのはそんなに低い可能性ではないかもしれない。

やっぱりなんか嫌だけど。

あ、ケータイ小説に関しては以下をどうぞ。



本の未来については以下をどうぞ。

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