本稿執筆に際し、黄檗山萬福寺にて資料調査を行い、その成果を可能な限り反映しています。資料閲覧を許可いただき、更に、様々な資料についてご教示いただいた黄檗山萬福寺文華殿の黄檗文化研究所に、この場を借りて感謝申し上げます。
本来ならば宝蔵院での調査も行うべきではありますが、本稿執筆時には実施しておりません。片手落ち感が否めないですが、ご容赦ください。今後、鉄眼プロジェクトの収蔵庫公開などタイミングが合えばぜひ実施したいところです。「学術関係者様など各種団体様につきましては、別途個別対応させて頂きます」と宝蔵院のHPには載っているものの、自分は学術関係者ではなく、ただ本屋を巡っているだけの素人なので、イベント公開で見ることになりそうです。また、本稿は京都府立図書館に依頼したレファレンスも使用しております。重ねて感謝申し上げます。
初回訪問時
京都市役所から一旦北に行ったあと、二条通りを東へ進む。二条大橋の近く、木屋町二条に今回訪れた貝葉書院はあります。と書いたのですが、今回伺う前に、雪晴れの金閣を見て(coffee and wine ushiroで朝食を摂りながら行くことを決定)、その後雪が屋根に積もった銀閣を見る。その後は浄土寺界隈の本屋(ホホホ座、竹岡書店、古書善行堂の3軒)を回ってからバスで京都市役所前まで移動して歩くというルートで移動していました。
雪晴れの金閣を見て以降、「今年(筆者注:2023年)の運をすべて使ってしまったのではないか」と思い、空腹(本屋を巡ることに熱中しすぎていつも通り昼食を食べ忘れる)になりながら移動をしていました。
さて、「大般若経版元」「宗教書林」の文字を見つけ、貝葉書院に到着。予め頭に入れておいた情報は、今も板木を所有しており、「版元」という言葉が合う本屋であることのみ。期待しつつ、早速中に入ってみる。本はそこまで多くない感じ。棚をぐるっと見て回ると、ほとんど仏教書、仏教書というより経典が多かったです。装幀も洋本よりも和本や折本が多くありました。
経典は貝葉書院で摺ったもの、洋装本では永田文昌堂など仏教関係の版元のものがありました。棚を物色し、買うものを決めて会計へ。ここは御書印参加店のため、持ってる御書印帳を出し、しばらく待つ。御書印が出来上がった時に少しばかりお話を伺いました。
店について(おもに店主の話から)
この貝葉書院、元々は『鉄眼版一切経』を専門に摺る「一切経印房」として1681年に創業し、現在の名前は明治時代になってからとのことでした。貝葉書院になった後、様々な版元の板木を買い集めて、店主曰く現在は1万枚ほどを所蔵しているようです。
板木を持っているということ自体驚きなのですが、それを1万枚も持っていることに非常に驚きました。どうやら定期的に板木の公開をやっているらしく、摺る光景も含め、是非見てみたいものです。自分が知っている限り、京都で板木を公開している本屋、版元は法蔵館と貝葉書院の2箇所だけ。おそらくもう少しあるかもしれないですが(藤井文政堂や佐々木竹苞書楼の板木は奈良大学博物館が所蔵)、貴重な存在であるのは間違いありません。
『鉄眼版一切経』の摺刷については、2022年頃に板木保存の観点から終了となっており、今後、『鉄眼版一切経』をどう発行していくのか気になるところです。
出版物について話を伺ってみると、折本を作るには洋紙の場合、耐久性の問題からなのか折り目から壊れてしまうことがあるので、今でも和紙を使っているとのこと。この和紙の調達や、摺り師や折る人(折るにも専門の職人がいるらしい)の確保も年々大変になっているようです。恥ずかしながら、折るにも専門の職人がいるということを貝葉書院へ伺うまで知りませんでした。摺り師については和本に関する書籍で度々出てくるので知ってはいたのですが……。
これ以外にも、新しく本を収めるのに数十年以上という長い時間がかかる、ということも伺いました。これはおそらく折本の耐久性が非常に高いが故なのでしょう。そのため貝葉書院では、今でも100年以上前の折本を売っているのかと勝手に納得してしまいました。
ちなみに新聞之新聞社『全国書籍商総覧 昭和10年版』(新聞之新聞社)の「貝葉書院」の項をお見せした際、「うちの祖父です」と返していただきました。店の話についてはYoutubeで京都市景観政策課まちなみチャンネルが「江戸時代から続く木版手刷り印刷「貝葉(ばいよう)書院」」という動画にまとめているので、サッと見る分にはいいかもしれません。
2度目の訪問
2023年11月、百万遍知恩寺にて行われる秋の古本まつりの最中に改めて訪れてみました。この前日に黄檗山萬福寺への資料調査、並びに宝蔵院への参拝(寺そばを食べる)をしてきました。2023年の7月に店の看板が盗まれて(こちらは様々なメディアに取り上げられていました)以降初の訪問となりました。店に着くとたしかに掛かっていた看板がありませんでした。
店に入り、本をいくらか手に取り会計へ。軽く(のはずが長くなってしまった)お話を聞いてみると、看板の件については「上と下両方に掛かっていたので、下だけないとバランスが悪いというか間が抜けているというか……」とのこと。貝葉書院の名前になって130年近く掲げられていた看板なので、なくなるとたしかにぽっかりとしているように見えました。
鉄眼版一切経の印行が30年程度貝葉書院から其中堂へ移った件(『本屋の周辺Ⅱ』(H.A.B)の「其中堂」を参照)については「そういうことがあったことは聞いているが、なぜなのかは聞いていない」とのことでした。ここは非常に気になるところでした。「貝葉書院の資料があまり存在しない」とも伺い、古くからある本屋でも資料が残っているところは珍しいのかと改めて感じました。
資料から見る貝葉書院
さて、ここからは貝葉書院について、いくつかの資料を見ていきます。まず、店の創業については店舗HPに
「1681年 江戸時代 将軍綱吉公の頃、鉄眼禅師によって作られた一切大蔵経(版木約六万枚)を専門に摺る書店として「一切経印房」という屋号にて営業を始めました。明治になり一切経だけでなく禅学書籍経典一般を扱い、屋号を「貝葉書院」と改め今日に至っております」
とあります。ここを見ると元から「貝葉書院」だったわけではなく、「一切経印房」としてスタートしていたことがわかります。
他の資料で見ていくと、例えばおなじみ(この資料を「おなじみ」と言ってしまうのはおかしいのではないか、とは思ってしまうが……)新聞之新聞社『全国書籍商総覧 昭和10年版』(新聞之新聞社)の「貝葉書院 河村一學」を見てみる
「寛文八年春、大藏經開板の業を思ひ立ち隠元禪師に諮り、隠元より黄檗山の土地一部を借受けて寶藏院を建立、更に京都木屋町二條に印房を設け(略)」
とあり、これは出版タイムス社、出版通信社、出版研究所共編『現代出版業大鑑』(現代出版業大鑑刊行会)の「貝葉書院 一切經印房 河村一學」とおおよそ同じ記述でした。これ以外にも、出版タイムス社編『日本出版大観』(出版タイムス社)の「一切經印房・貝葉書院 河村泰太郎氏」も見てみると、前2資料と同じく一切経印房の開始は1668(寛文8)年と取れる書かれ方でした。
しかし、京都書肆変遷史編纂委員会編『京都書肆変遷史 : 出版文化の源流 江戸時代(1600年)~昭和20(1945年)』(京都府書店商業組合)(以降、『京都書肆変遷史』とする。非常に厚いが京都の本屋について調べるにはほぼ必須の一冊であり、個人的だが手元に置いておきたい本)の「富永屋勝太郎(一切経印房)後貝葉書院・貝葉堂」(以降「富永屋勝太郎」とする)を確認してみると
「寛文九年(一六六九)黄檗山萬福寺隠元禅師の高弟鉄眼禅師が一切大蔵経の布教のため木屋町二条に「印房」を設けたのが起こりの様である」
と、黄檗文化研究所で閲覧した『寶蔵 二月号』にある赤松晋明「一切經とその印房」に「印房は、寛文九年創設以来」とあり、資料によって記述がまちまちでした。
では店舗HPの「1681年」という記述はどこから来たのか?これについては『京都書肆変遷史』の「富永屋勝太郎」に
「元和元年(一六八一)(筆者注:天和元年が正しい)に一切大蔵経が完刻」
とあり、鉄眼版一切経の成立年を創業年としていることが推測できます。黄檗文化研究所でいただいた渡辺麻里子「鉄眼版一切経と了翁の寄進事業 ―その意義と研究課題―」のレジュメに
「現在は天和元年(一六八一)を一応の成立年代としている」
とあり、貝葉書院の御書印の「since 1681」は鉄眼版一切経完成年であることが推測できます。しかし、渡辺曰く
「天和三年(一六八三)の刊記もあり、さらなる検討を要している」
とあり、鉄眼版一切経の成立年は1681年である、と断定するのは早計なのかもしれません。このレジュメを見ると、鉄眼版の前には天海版(寛永寺版)や宗存版といった木活字による一切経があったこと(天海版は知っていたが宗存版は知らなかった)、鉄眼版は万暦版一切経を基にしている(隠元禅師が鉄眼禅師へ万暦版を与えたから)が、必ずしも万暦版が原本でない版があること、鉄眼版は開板以後改刻が行われていたことなど、非常に興味深い内容が書かれており、聞いてみたかった発表であります。書誌学の知識があるとより面白そうな内容でした。
「一切経印房」は江戸時代に鉄眼版一切経の頒布所として創業し、その店主としては代々「印房」氏が就いていたようです。これは『日本出版大観』、『全国書籍商総覧』に記述が確認できています。印房氏は鉄眼道光(鉄眼禅師)の知遇を受けた同郷の方で、出身は熊本県であることがわかります。しかしながら『京都書肆変遷史』では「冨永」氏が代々営んでいると書かれており印房氏は何処へ、となっています。
この印房・富永・河村の三家については赤松が(こちらは『寶蔵 二巻三号』、「一切經とその印房」は『寶蔵』の二巻二~四号(1934年発行)で連載)で一切経印房における主任者である知蔵という役職についての記述の中で
「印房創始以来、番頭として俗人を多數使用しており、中興よりは印房家、富永家、河村家に委任された形であつて、明治の末期からは、完全に前期三家(異姓なるも内容は殆ど同一家)に土地家屋までも譲渡し、版木は賃貸契約されるに至つた」
と書いており、この三家が中心となっていたことはどうやら間違いなさそうです。
富永姓で書籍商を営んでいたことは、国書データベースにある1864(文久4)年四刻の『大日本永代節用無尽蔵』の刊記に「同木屋町二条 富永勝太郎」が記されていることから確認できます。これ以外は現状、富永姓が書かれている出版物を確認できていません。
では、印房姓はどうなのかというと、国会図書館デジタルコレクションに収蔵されている明治期の和本に「印房武兵衛」という名を見つけることができます。湛然 述『止観大意』などで確認できています。しかしながら『京都書肆変遷史』では
「勝兵衛、武兵衛、勝太郎、泰太郎と継承された様で、武兵衛の代で出版を試みた様である。それも一切経印房武兵衛として。」
とあり、現状わかっている範囲の資料ではどうもしっくりこない。ですが印房武兵衛の名で出版活動をしていたことは事実です。
その後、どうやら泰太郎の代に河村姓となったようです。『全国書籍商総覧 昭和10年版』、『日本出版大観』、『現代出版業大鑑』、『京都書肆変遷史』で確認できます。しかし『現代出版業大鑑』では「印房姓を廢し」とあり、富永は何処、と感じてしまいます。
現在の店名「貝葉書院」は明治時代から名乗っている、ということですが、これはどうやら『全国書籍商総覧 昭和10年版』、『日本出版大観』、『現代出版業大鑑』において1894(明治27)年、つまり、河村泰太郎の代から一切経印房とは別に名乗ったのが始まりとのこと。
『京都書肆変遷史』にも「泰太郎の代に(中略)これを期に一切経印房(昭和初期存続)とは別に貝葉書院の名で禅宗、天台宗を中心に仏書、経本等の出版を多数刊行した」とあります。たしかに国会図書館デジタルコレクションで調べてみると、1894年以降の出版物には「貝葉書院」の名があるのですが、白隠禅師著『夜船閑話』(貝葉書院)の内題と刊記を見ると「明治十九年」と書かれており、もう少し前から貝葉書院の名を使っていたのではないかと推測できます。
貝葉書院、一切経印房は堂号として貝葉堂を使用しており、松亭金水著 [他]『善悪因果経和談図絵』(一切経印房)には「河村貝葉堂」の記述を確認しています。出版以外にも貝葉書院は『禅宗』(禅定窟)という定期刊行物の売捌もしていたようです。
貝葉書院から独立した店は、『京都書肆変遷史』によれば中京区二条通木屋町東角に1936年に川端清五郎という人物が創業した川端書店、この1軒のみ確認できました。国会図書館デジタルコレクションでは多紀道忍編『天台宗法式儀則』(川端書店)という本の出版が確認できました。この本の奥付を見ると、住所は中京区二条通木屋町東入東生洲町482とあり、現在の地番と変わっていなければ、貝葉書院から近い所にあったことがわかります。
この川端清五郎、どうやら幼少より貝葉書院で奉公し、1936年11月には勤続43年の表彰を受け、翌月独立したようです。商売は外商を主とし、
「もっぱら比叡山延暦寺に、本家「貝葉書院」の佛書、経本を主に納入」(『京都書肆変遷史』より)
していたようです。1944年3月に廃業と、8年の営業期間であったようです。
印房移転と印行権の移動
さて、江戸時代よりずっと鉄眼版一切経の印行を行っていた貝葉書院ですが、調べてみると興味深い出来事が見つかりました。これは貝葉書院をもう少し深く調べてみよう、と思って行ったもので、松永知海「黄檗版大蔵経-版庫の移転を中心として」(黄檗文化研究所『黄檗文華 一一六号』(黄檗山萬福寺文華殿)所収)という論文に、
「昭和九年六月限りで貝葉書院は大蔵経印行の権利を辞退し、同年八月に書林其中堂が以後三〇年その権利を持つことになり、その後再び貝葉書院が権利を持ち現在に及んでいる。」
という記述を見つけました。
また、1930年に発行された三浦良吉 編『黄檗山聯額集』に、
「昨秋 同山寶蔵院より、鐵眼版 一切大蔵経の印行頒布を委任され」
とあることから、1929年に鉄眼版一切経の印行権が其中堂へ移動していることが確認できました。この話は『本屋の周辺Ⅱ』(H.A.B)の「其中堂」にて書いたのですが、こちらにも記載しておきます。何が理由だったかは不明ですが、一時期貝葉書院が鉄眼版一切経から手を引いていたことは衝撃的でした。
また、松永では赤松晋明「一切經とその印房」を引いており、そこには印房を木屋町二条から吉田神楽岡に移転したことが書かれていました。この論文を見つけなかったら、黄檗文化研究所へ調査に行くことはなかったでしょう。こればかりは孫引き、ではなく可能なら実物を見てみたいと思ったのです。
赤松によると、印房の変遷について
「印房を印房家又は河村家(ともに現在の佛敎書林貝葉書院の主人)に委任して、時々、知藏の出張監督する制度に變更し、續いてその所有土地を、吉田神樂岡町の土地と交換、印房の家屋を賣却して、(中略)辛うじて知藏の役目はその一室を借り受けて励行してゐた」
と書いています。この「印房の家屋」はおそらく木屋町二条の印房、つまり貝葉書院でしょう。時代の変遷に伴って印房の存続が難しくなっっていたのかもしれません。そして、吉田神楽岡に印房を造るきっかけとなったのが『鉄眼の一切経』が国定教科書へ採用されたことのようです。
この機を逃さず、印房再興が満場一致で可決され、正式に一切経印房の再興、移転が決定したようです。これについて赤松は
「昭和八年十二月四日、寶蔵派中満場一致の決議により、印房を京都市左京區吉田神樂岡町二十四番地(院地)に新設、河村邸内より移轉することに決め」
と書いています。この移転作業は思ったよりも時間がかかっており、貫華處の遷座式を1934(昭和9)年4月1日に、印房の落慶式を同年5月18日に実施したようです。この落慶式については、『寶蔵 印房落慶記念號』に「印房落慶式」として記載があります。
なお、赤松晋明『鉄眼』(雄山閣)によると、
「この知藏寮も、昭和十六年、或る理由のため、一時閉鎖されるの止むなきに至つた。」
とあり、何らかの理由で閉鎖されていることが書かれています。この前年に出ている赤松晋明『鉄眼禅師』(弘文堂)では、吉田神楽岡に移転した印房について
「その後故あって寶蔵院内に併合したのである」
と書かれていました。より細かい印房移転の話についてはこれ以上追いかけることができないので、書き留めておくのはここまでとなります。
買った本
直近、2023年11月の訪問にて買った本は、『護諸童子陀羅尼呪経』と『般若心経』(貝葉書院)。2冊ともここで摺られた本となります。摺られてから100年以上経った本でした。日常的にこの頃の本を手に取って買えるという環境はかなり珍しいのかもしれません。