忙しくなってくると、こう何かでっかいものを見たくなってくるというか、「これはすごいすごすぎる言葉にならないっ!!!!!!」みたいな感覚を味わいたくなる癖があって、具体的には天才に会ってみたいとかそういう感じ。
たぶん自分を励ますためだったりストレス解消だったりそういうことのためなんだけれど、最近はシンパシーの表現ばかりらしい。そうなのかなあ。あーでも安易に泣かせにくるのとか笑えるのとかそういうのばかりってのはそういうことなのかな。
webCYNRAのこの対談記事を読んでそう思った。
"穂村:表現には「共感=シンパシー」と「驚異=ワンダー」があって、詩や音楽の本質はワンダーだと思うんだけど、今は圧倒的にシンパシーの時代ですよね。少なくとも僕が青春期の頃までは、「誰も見たことがないものを見たい」とか、「自分がそれを最初にやる」というようなワンダーの価値が大きかったと思うんだけど、それがここまで値崩れしたのがショックで。「見たことがない、聴いたことがない」ものへの憧れって、どこに行っちゃったのかなって。
―なぜここまで値崩れしてしまったんだと思われますか?
穂村:1つは社会が厳しくなったこと。同調圧力が強くなって、「変なおじさん」みたいな人の存在が許されない。僕みたいな人が昼間に住宅地の公園に行くと、お母さんたちがみんな警戒して、「いるだけで罪」みたいな(笑)。そういう厳しさと、シンパシーの強制力はリンクしてると思います。今は逸脱した魂の居場所がない。"
"未来の言葉を使える人たちというのは、やっぱり光ってるんですよ。"