という言葉は良くないものだと思っている。というのも「あってはならない」には「なかったことにする」が内包されているように思うからだ。
人は弱いものなので置かれた場所(環境)によっては当然間違いもすれば汚職とか贈賄とかも起こるだろう。でもそれじゃ全体が回らないからルールを設けるわけでルールがある以上それを破る人は必ずいる。
必ずいるものをいないものと想定するからこそルールが破られることを「あってはならない」と表現するわけで、ないのが当たり前ともなるわけで、とすれば当たり前、普通、日常にするためになかったことにすると考えるのはそれこそ当たり前の感情というかそういう思考の流れになるのが当然な気がする。
そりゃルールは守られるべきかもしれないけれど、でもルールはそれができる前に理想状態とか均衡状態のようなベストかベターの状況を想定してそれが長く続くようにできたものであって、元の目指したい理想や悪くない状況が変わったならルールは破られて然るべきだしそのときそれはあってはならないことではないはずだ。
とはいえ殺人とか窃盗とか最低限守られた方が良いだろうルールもあるわけで(倫理の勉強不足で根拠は弱いけれど)、それが起きた時に「あってはならないことが起きてしまった」みたいな表現を使ってしまいたくなる気持ちは分かる。
それでもあまりこの表現を使うべきではないと思うのは個への罰や責任追求が行き過ぎると全体のためにならないからと思うからで、これは海外では飛行機事故における機長の責任を限定的にしていることからも分かる(聞いたことのある話なのだけれどソースが出てこない。ソース求む)。
しかしそれでは、何はともあれ状況による、という結論になりかねないので、あってはならないことの代案としての言い方を挙げるとすれば何があるだろう。
法律違反、ルール違反、掟破り、悪、そんなところだろうか。最後の悪は言い過ぎだしルール違反あたりがベターな気はする。
ということはルールが明文化されていなくてはいけないわけで、とかく明文化されない雰囲気で物事を進めたり決めたりするこの国とは相性が悪いように思い、過剰な制裁と証拠改竄・隠しが横行するのだな、となんの解決にもならずにこの文章を終える。