こんにちはこんにちは、和氣です。第一回目ではcohonの危険な香りが漂いまくっていましたが、今回からはより具体的にそのヤバさが立ち上がってきます。真夜中の歌舞伎町で起きた実録本屋レポ。「真夜中の本屋さん 〜日本で最も危険な絵本屋、cohonの日常〜 (2)」スタートです。
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第2話 スタッフが店に居座って帰らない
「この絵本、ください」
彼女のその言葉は、まったく唐突だった。頭のてっぺんからつま先まで黒ずくめ。顔のほとんどを覆い隠す大きなマスクと、目もとからわずかに覗く肌だけが、夜の薄闇から浮き出るような白さだった。
小さなリュックサック(それさえも黒一色に統一されていた)を背負い、その様子を一言で表現すれば、写真週刊誌のモノクロページで黒い目線を入れられた『歌舞伎町のワケアリ家出少女』などといった記事のイメージがぴたりと当てはまる。
それは5月23日のこと。
cohonのプレオープンとして、歌舞伎の道ばたに店舗を構えた、その最初の日だった。率直なところ、誰も来なくて当然だと思っていた。当時はまだ珈琲も用意していなかったし、そもそも深夜の歌舞伎で絵本を売ろうなどということ自体があまりにも荒唐無稽な話だ。
きっと来るのは反社会的勢力だけだろう。わけのわからない因縁をつけられ、絵本たちは白刃のドスで一突きされるし店は金属バットの荒れ狂う嵐に晒される。あとに残ったのは乱切りのゴボウの如くにされた、かつてcohonだったモノだけ……。私は半ば本気でそう思っていた。
ところが最初に店に興味を持ってくれたのは若い女性で、しかも彼女はあろうことか、『はっぱのフレディ』を抱えて「この絵本、ください」とまで言ってのけたのだ。
「はい、こちらは一冊千円になりますよ」
などという流暢な案内ができるわけもなく、実際に私の口をついて出たのはこんなものだった。
「えっ……本当に買うんですか?」
思わず溢れ出る「嘘だろ」のニュアンス。
一方の彼女は後日、そのときの経緯をこのように述懐している。曰く、「あまりにも可哀想な商売をしているので同情した」と。それから彼女は店に居座り続け、勝手に客引きを始めるなどすることとなった。
名前は訊かなかった。訊けばきっと教えてくれただろうが、この街にあって本名はさほどの意味をもたらさない。私はいつしか彼女を『スタッフ』と呼んでいた。店のスタッフではなく、スタッフという名前の女の子。そんな距離感が、ここではちょうどいいと思った。
少し話していると、スタッフの言葉の端々からは隠しきれない深い闇が滲み出てくることがわかった。店を構えている大久保公園周辺がどういった意味を持つエリアなのかも教えてくれた。
ホストにも詳しかったが、それは売れているホストというより、主に金銭面のトラブルを抱えたホストのことをよく知っていた。また、イケメンアレルギーであるという。イケメンと話すとすぐお腹が痛くなると言いつつ、私とは仲良く話ができていた。お腹痛くなれよと思った。
外国人からバッティングセンターの場所を尋ねられると、案内するといってすぐ出かけてしまう。大丈夫かなぁと思って待っていると、見知らぬホストを連れて帰ってくる。誰なんだ、そいつは。
「新潟から先々週出てきたばかりで。つらいっす。ホスト辞めたいっす」
そうなのか。絵本の世界で癒されてくれよ。
「いや、それはいいっす」
そう……。まぁ、ゆっくりしていきなさい。
ちなみにスタッフは「いきなりこのホストに手を握られたから連れてきた」とワーワー騒いでいた。スタッフは空手の心得があり、護身術には自信があるそうだ。そのため軽く小突く程度と言いつつ下腹部を殴って「ぐッ…!」と鈍いうめき声をあげる客を何人か見たことがある。もちろん店主もその被害者のひとりだ。本当にやめてほしいと思う。
数時間で店をたたむつもりが、気がつけば朝を迎えていた。
営業初日の売り上げはスタッフが買ってくれた絵本3冊と、たまたま買ってくれた男性の1冊。それにスタッフが韓国旅行の余りで使いみちがないからあげる、と言って私にくれた1万ウォン(だいたい千円弱に換算される)。まぁ、もらえるものはもらうが、1万ウォンなんていつ使えばいいんだか。
荷物をまとめ、スタッフは私のマンションの前まで一緒に運んでくれた(歌舞伎在住のまったく便利なこと!)
私はスタッフに朝ごはんをおごると告げ、荷物を部屋に置くまで下で待っているよう伝えた。数分の間のことだ。エントランスに戻ると、そこにスタッフの姿はなかった。そして計ったようなタイミングで電話の着信音がポケットから鳴り響いた。
『知り合いに誘われたから今から飲んできます! 約束してたのにすみません!またスタッフやります!』
彼女は用件だけを矢継ぎ早にまくしたてると電話を切った。
浅野歌舞伎は営業を終えたホストやキャバ嬢たちが疲れた表情で歩き、タクシーを拾い、それぞれが帰路に着こうとしている。中には数人で寿司を食べようと言っている人たちもいるし、まだアルコールが抜けていないのか夜が明けたことにまだ気づいていないのか、乱痴気騒ぎに興じる集団もいる。
cohonも初日営業を終えた。たぬきに化かされてたのかなぁ?などと思ってしまうような一夜は。山のような出来事の雪崩と、あっけない幕切れ。
「寝っか……」
エレベーターの上昇ボタンを押したとき、本当に長い夜だったと深いひと息がついて出た。
後日談
それから、翌日のこと。私は新宿二丁目にあるコリアン・ゲイバーに入ろうとしていた。もう数年の付き合いになる店だ。
その日は2千円しか手持ちがなかったが、まぁ、あり金で飲んで帰ればいい。そう思ってドアを開けると、いつもの数倍のテンションの『彼ら』が私を出迎えた。気圧される私をよそに、彼らは満面の笑みを浮かべてシャンパンを抱え、胸元に捻じ込まれた紙幣を誇らしげに見せつける。
「いらっしゃ〜〜〜い!!!今日は周年パーティよ〜〜!!!」
「3千円で飲み放題よ〜〜!!!」
なるほど、そういうことか。ちなみに二丁目ではニューハーフ系の店でなくても周年には女装をする店が定番だが、ここは迷彩服という極めて異例の衣装であった。妙にリアルな迷彩だと思っていたら、やはり韓国軍に徴兵されたときに使っていた本物を持ってきたらしい。
お酒を注文すると韓国語で何か号令をかけ、3人でぴたりと息を合わせて敬礼する。曰く、「めっちゃ練習したのよ。昨日やったときは誰一人として合わなかったわ」とのこと。
それにしても困った。何せ手持ちは2千円しかないのだ。いや……待てよ!?
「2千円と1万ウォンがあるんだけどいいかな!?」
「う〜〜〜ん……許すゥ〜〜!!」
よかった。日本にいて、昨日もらったウォンが今日使えたなんてことがあるのか。スタッフ、ありがとう。助かりました。