前回の記事ではぼくが思う本の世界の現状について書いた。今日はこれからどうしようか、ということについて書いていく。
良い本が売れて嬉しくなって欲しいひと
まず、「良い本が売れて嬉しくなって欲しいひと」は誰かを明確にしたい。
そもそもの話としていまは出版業界だけでなく社会のすべてが転換点である。
ウェブによりすべての構造が変わりつつある中で、これまでにあったすべてのものを救うのは難しい。
もちろんみんながみんな笑えるのが一番だがそうは言っても全員を救うことは難しいだろう。
そんな中で誰が笑っていて欲しいのか。それは考えをまとめる上でとても大事だと思う。
変化の先で誰が笑っていて欲しいのか
結論から言うとクリエイターと読者である。ほかはこれに付随することだと思う。
つくるひと(クリエイター)がいなければ読むことはできない。読者がいなければつくるひとが食べていけない(大スポンサーがいた時代はさておき現代ではいまのところ無理)ということだ。
一方、出版社はひとつでは届きにくい文章や絵や写真やマンガ(ここでは議論を簡単にするために一緒くたにコンテンツと呼ぶことにする)を編んで読者に届きやすい形にする役割だし、取次は全国に流通させる役割、本屋は読者が買いやすい場所を提供する役割だ。
それぞれがそれぞれとても重要な役割だけれども、そもそもの話、クリエイターと読者がいなければ本の世界が今後も続くことはありえないのだ。
(既存の作品の使い回しで、しばらくは生き続けられるとは思うが、あたらしいものが生まれないところにひとは集まらないだろうし、そうしたら市場はどんどん小さくなってしまうしおもしろいものも生まれなくなるだろう。それはぼくは嫌だ。)
ということは、この二者を潤わせることができれば、必然的に本の世界も潤うことになるはずなのだ。
現在の会社や業態は残らないのが前提
ただ、ここで注意して欲しいのが、ぼくが考える本の世界は出版業界とイコールではないということだ。これはつまり、会社やいまの業態が必ずしも残るとは考えていないということである。
というか、上に書いたように社会は良くも悪くも変化の真っ最中であり、ということは「現在の会社や業態が残る」という前提で考えることが良策とは思えない。
そういう意味でも、クリエイターと読者を中心に、それ以外の役割は状況に合わせて変わるだろうし変わるべきだと思う。
リアルタイムで変わっていっているのが「コルク」とか「cakes」とか「KADOKAWA」とか「天狼院書店」とかであるし、そのほかにもブックディレクターやブックコーディネーターなどなどある。ぼくの知らないだけでもっとたくさんの実例があるだろう。
仕事の境界線すらあいまいになっているわけで、クリエイターがマーケティングまで見ることもあるだろうし、逆もまたあるだろう。
ほかの世界はどうか?
ここで、視点を変えて、ほかの世界のことを考える。広告の世界のことだ。
ぼくはご縁から広告業界の方ともお話させていただくことがあり、そこでの問題意識も聞いたことがある。
曰く「海外と日本では何年間も感覚に差がある」「クリエイターが儲からなくなってきている」などなど。
カンヌライオンズでは、ソーシャルグッドの流れや技術優位主義(のようなもの)、SNSの上手い活用といった流れがあり、一周まわって今年はクリエイティビティそのものが問われたようだ。
で、特に「カンヌライオンズまとめ」の際に河尻亨一さんに「クリエイターがいかに食ってくかが一番の問題だ」と言われたことがあった。
これってそのまんま本の世界にも適用できる。
境界がなくなり再編される世界
広告の話が続いて恐縮だが、上記のような状況の中、広告業界から独立したクリエイターというかデザイナーというかそういった人たちも、やっていることが多様過ぎて自分が何をやっているのか分からないというようなことを仰っていた。
詳しくは分からないがいわゆる絵を描いたりCMを作ったりというだけの、一般人の考えるいわゆる「クリエイティブ」といったイメージの仕事をやることが少ないらしい。
これってつまり、広告のひとがいつの頃からか言われているようにコミュニケーションをデザインするようになっており、そこに広告的な立ち位置からアプローチするってことになっているのかなーと思う。
デザイナーの仕事はこれ、とかエンジニアの仕事はこれ、とかそれぞれの仕事の境界が曖昧になっていて、立ち位置だけは変わらずに目的を達成するような感じ。
本の世界の境界
さて、これが本の世界になっていくと、編集者は既に似たようなもの(なんでもやるってこと)だと聞くが、作家も営業的なことや編集をしたりなどといったことをしなくてはいけなくなってくるだろう(すでに一部ではそうなっている)。
広告の世界では「企業と消費者とのコミュニケーション」が本質だとして、そこに付随するものは変わってきているということだと思うが、本の世界ではどうか。
本の世界では作家・著者と読者の関係がもっとも大事であり、ここに幸せな関係をもたらすために、そのほかの職能が成り立つようになっていくと思うのだ。
ということは、その読者にもっとも近い本屋(もしくは本屋のようなもの。本屋的なもの)がこれからの時代、本の世界のキープレーヤーになると考える。
作家・著者と読者に本というものの素晴らしさを伝え、それぞれの嗜好に合わせた本とその体験(=コミュニケーション)を提供する。そんな役割が本屋にはできると思うのだ。
(出版社や取次にもその役割は担えるし、それぞれの立場ごとに強みを出せると思うが、読者に最も近いぼくは本屋がもっとも輝けると言いたい!)
本屋的なものの行方
そんなわけで、ぼくは内沼晋太郎氏の言うような広義の「本屋」、つまり、本屋的なものが本の世界では今後重宝されるようになると信じている。
境界が曖昧になっていく中で必要なことは職能だ。つまり、会社や職業ではなく何ができるか。
そういったときに本屋の職能とは何かというと、選書と流通だと思う。つまり、棚を通してお客さんとコミュニケートすること。
そのために、本を選び、仕入をし、品出しをしっかりして本棚をつくる。
本屋は編集者と同じように文脈を売る仕事だと思うのだ。分かるひとには分かるけれど分からないひとにはまったく分からない。でも、結果として売れる演出。
編集者との違いはお客さんと直接話したりコミュニケートすることであり、扱うものが本(とその周辺)であることだ。本の中身までは立ち入らないで小売りとしてしっかりした仕入と演出で売るということ。
(これ以外の職能もたくさんあると思うが、外側から見たぼくが考える代表的な職能がこれだ。細かく言えばもっとあるだろうが代表的なものを書いた。)
この能力を元に書店員とか編集者とかそういった肩書きは関係なく、
「クリエイターと読者・ユーザー・消費者の関係がもっとも大事であり、ここに幸せな関係をもたらすこと」
そのために動くこと。
その震源地となるものが本屋的なものであり、それがぼくの考える「これからの本屋」なのだ。
これからの本屋
いままで書いてきたことを整理しよう。
- 現在は変化の真っ最中である
- 出版業界もその例外ではない(縮小している)
- その中で生き残って欲しいのは作家・著者と読者である
- 変化の只中で職業の境界は曖昧になっている
- しかし、本屋が本の世界のキープレーヤーである
- 理由は読者にもっとも近いから
- 目的は「作家・著者と読者・ユーザー・消費者の関係がもっとも大事であり、ここに幸せな関係をもたらすこと」
こう考えた上で、これからぼくが居たいフィールドはどこなのか。
ぼくのフィールドはあくまで「本の世界」である。本がある世界が豊かになるようにしていきたい。
それは言い換えるとまとまったいわゆる歴史や地政学、物理学などなどそれぞれの文脈を意識してひとつの考えを持ち、それを持ち寄って議論して前に進んでいけるようなひとが増えるようにしたいということでもある。
そのために「本」という枠に囚われないことが大事だと思うし、でも、本のようなひとつながりのまとまったコンテンツである「本的なもの」を残し価値を高めることが大事だと思う。
まとまった情報を文脈も含めて提示てきるもので本以上のものが現在のところないと考えるからだ。
(もちろん本のある空間そのものの居心地が「感覚的に」好きということもある。大いにある。というか、ほとんどそれが理由であとは後付けの理屈かもしれない(笑))
具体例で言うと、佐野研二郎氏のパクリ疑惑の件や安保法案の件なんて佐野氏側・政権側の完全なコミュニケーションミスだと思うし、本来、このサービスの提供側である佐野氏や政権のプロパガンダ的(そのために議論にならないような偏り不足した)広報を、チェックし矛盾を暴くはずの立場のマスコミの体たらくたるやヒドいし。その上、無関心や意見を表明しないことが是になってしまっている大多数。
この状況を否定するためには、本屋的なものが本的なものによって、考え方や事実の繋がりを適した方法で提供することが必要だと考えるのだ。
つまり、何が言いたいかというと、本の世界が豊かになるということは、「本の」がつかない誰しもにとっての「世界」を豊かにすると思うのだ。だからこそ、ぼくは本の世界を豊かにしたい。
本屋と技術
この目的を達成するためには、先日の独立宣言でも書いたが、本屋に技術が融合しないといけない。なぜなら、先端にこそ豊かさはあるからである。技術の進歩が著しく、来年には今年まで出来なかったことが当たり前のようにできてしまうような状況の中で本屋だけがそれを無視していいのか。取り入れたとしてこんなにスピードが遅くて良いのか。
前回記事の中盤に「本を売るためにはウェブとは競合しないようにすることが大事だ」と書いた。でも、本来は、ウェブと本的なことは矛盾しないはずである。
じゃあ、ウェブの特性って何よ? って話になる。
生まれた当初は情報共有のしやすさとか場所を選ばないとかコピーし放題とかだけだったと思うんだけど、ガジェットの進歩もあって際立ってきているように思う。そこであらためて今現在のウェブの特性を思いつく限り挙げておくと早い
安い(または、無料)
軽い
拡散しやすい
複製しやすい
あと思想として「水平構造を好む」とか「透明性が大事」とか「楽観主義」とかある(のかな? これはぼくのウェブっていう思想に対して持っているイメージ。ハッカー文化みたいな)。
ウェブでもまとまった情報や文脈は提示できるはずだし、コストの問題を除けばウェブでできることも本でできる。お金は構造によるものなので解決できないかもしれないが、ウェブ的なものがまとまった情報や文脈を提示できないのは「いま」の話であり、これも技術の進歩によって適したものが生まれるだろう。
いやむしろ、本屋的なものがウェブを積極的に取り入れることによって、本屋もウェブもアップデートできるかもしれない。
『ペナンブラ氏の24時間書店』でGoogle社員のヒロインがOK(Old Knowledge)をウェブ上にアップロードすることを企んでいた。OKとはウェブにアップされていない本や冊子などに書かれたコンテンツのことだ。
「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにすること」が社是のGoogleである。このOKがいまだ世界の殆どを占めているからこそヒロインはOKのウェブ化を望んだ。
「インターネットの自由という夢が潰えた」という記事があったが、案外、そんなインターネット(=ウェブ)のアップデートは本的なものとの融合によって果たすことができるのかもしれない。この記事のジェニファー・グラニック氏の夢見たものとは違うかもしれないが、インターネットの自由はこの融合が実現できたときに実現できるように思う(それはディストピアかもしれないが)。
本の世界は最先端である
さて、筆が滑って余計なことまで書きすぎてしまった。いや筆じゃなくてタイプか。
まー、強引にまとめると、いまあえて本の世界に足を踏み入れることはノスタルジックからでもなんでもなくて、むしろ最先端だと言いたいってこと。
うん、最後は尻切れトンボになっちゃったけど、書きたいことはだいたい書けたかな。
この話と実は、最近思っている「本の世界の魅力を伝えるひとになりたい」ということはちゃんと繋がっていくんだけれども、それはまた後日。
まあ、そんなわけで今日はこの辺で。
さよならさよならさよなら。