山形の日本海側、庄内と呼ばれるエリアの鶴岡市。鶴岡駅からしばらく行ったところにある山王町商店街に、今回訪れた阿部久書店はあります。
今回ここを訪れたのは、前日と前々日に山形・米沢の本屋を巡っており、訪れた古本屋3軒中3軒が、「鶴岡の阿部久書店はいい」と推していたのがきっかけです。
「そこまで推すのなら行ってみよう」と思い、山形の宿で行程を再構築。ちょうどいい時間に山形~鶴岡(朝一番、予約不要)、鶴岡~仙台(13時、要予約)と高速バスがあるのを発見したため、本来は朝一番で仙台に入り、仙台金港堂でやっていたサンモール古本市を見物し、7月に相馬野馬追の前後で見れなかったボタンに行ったり、古本あらえみしを訪れる行程を変更し、東北横断で夕方仙台入に変更しました。
鶴岡に着き、エスモールから歩けば20分くらいですが、今回は高速バスから綺麗に接続できたため、バスで最寄りの山王町へ。そこから2分くらい歩いて店に行きました。
店に入る。1階は新刊(と和本などが置いてある)、2階は古書。2階へ続く階段には掛け軸。とても高そう。1階を見ると庄内や山形の郷土資料がカウンターの周りにありました。またこの階には鶴岡出身の作家藤沢周平の棚もありました。
そして2階へ上がる。2階の充実ぶりにはとても驚くばかり。全集、文学、郷土資料、軍事など多岐にわたる本の数々。仙台行きの予定がなかったらここで1日を潰すことができそうでした。
予算に糸目をつけなければ大量に買うつもり(それはそれで持ち帰りが大変になるが……)でしたが、色々な制限を考慮して本を選んで会計へ。そのついでにほんの少しだけ話を伺うことに。
聞けば100年以上営んでいる本屋とのこと。外に「明治20年創業」と書いてありました。ここを見たあとバスで仙台に行くことを話すと、丙申堂という場所を勧めていただきました。そこはどうやら風間家という豪商の旧宅で、荘内銀行の前進である風間銀行の創業家とのこと。
せっかくなので行こうと思ったら、丙申堂の方に取り次ぎ、案内していただくことになりました。本屋を巡ると観光要素が皆無になるのですが、今回の行程では山形の文翔館以来1日ぶりの観光となりました。ちなみに帰りはエスモールまで歩き、ジャーマンドッグを2分くらいで食べて高速バスに乗って仙台へ(金港堂であった古本市を見て帰りました。はやぶさは速い)。
資料から見る阿部久書店
ここからはこの本屋について、資料などから見ていくことにしていきます。まず、東北にある古本屋なので、折付桂子『増補新版 東北の古本屋』(文学通信)やその前の版である『東北の古本屋』(日本古書通信社)を確認したところ、山形県の古本屋は米沢の羽陽書房、山形の古書紅花書房(店の紹介はないが、山形城近くの香澄堂書店、文翔館裏の紙月書房と戦前から営業していた郁文堂書店は名前だけ登場)と川西町のかんがるー文庫のみ。これは「掲載したのは、全国古書籍商組合連合会(全古書連)に加入する各県古書組合の組合員の店」とあり、組合に加盟していない阿部久書店は対象外となっているためです。
阿部久書店について言及のある本は、最近のものでは髙瀬雅弘編著『人と建物がひらく街の記憶― 山形県鶴岡市を訪ねて(2)―』(弘前大学出版部)があります。せっかくなのでこの本を資料として使っていこうと思います。その前に、この連載でおなじみの『全国書籍商総覧』(新聞之新聞社)には記述があるか確認してみました。残念ながら、記述は確認できませんでした。
さて、髙瀬によれば阿部久書店は
「現在は鶴岡で唯一となった古書店である。(中略)一八八七(明治二〇)年創業の老舗であり、現在の建物は一九七〇(昭和四五)年に建てられたものだ。」
とのこと。しかしながら最初から書籍商を営んでいたわけではないようです。店名も元々は阿部久商店、屋号は阿部久四郎商店で「綿や布団などを扱う卸問屋」だったとのことです。
また、
「明治一〇年代には界隈の郵便局を受け継いで、荒町郵便局も営んでいた。(中略)郵便局は昭和の時代に入っても続けられ、阿部さんのお祖父さんが引退する際にやめることになり、書店一本になった。」
とありました。これらの記述から、阿部久書店は元々綿などを扱う商売から始まり、郵便局も営んでいたことがわかります。
まず、阿部久書店の創業について。こちらは1887年の創業であったという資料を見つけることができませんでした。山形県立図書館や鶴岡の郷土資料館などを訪ねて時間をかければもしかすると探し当てることができたのかもしれません。
しかしながら明治時代から書籍を商っていたことは1911(明治44)11月に発行された江南散史 編『山形県管内納税資産家之現勢』(日向書房)に阿部久商店の広告が掲載されているところから確認ができます。印刷が不明瞭な箇所が多いため、この広告から、店名と所在地・電話番号以外は「古書賣買貸本所」、「各製綿會社特約 綿類一式」、「繪葉書卸小賣」、「古金銀 公債類 賣買両替所」という内容のみ確認できました。
この広告から、阿部久商店は綿類を商っていたことが確かにわかりました。ちなみに電話番号が220番となっていますが、現在の電話番号の下3桁と一致しています。昔の電話番号から引き継がれたのでしょう。鶴岡に電話がいつ引かれたのか気になるところですが、たしかに昔から電話を利用していたのでしょう。
大正期の広告では、1913(大正2)年に発行された平野成継 『鶴岡案内』をまず確認していきます。『鶴岡案内』の広告では、「新古書籍雑誌大販賣 名所繪葉書流行唄本 蓄音機並音譜類特賣 金銀公債及製綿眞綿」と書かれており、綿と書籍、金銀公債以外に蓄音機を取り扱うようになりました。鶴岡郷土史同好会の『鶴岡百年のあゆみ 続・城下町鶴岡』には、1913年に発行された『荘内案内記』の内容を引用し、「阿部久商店 荒町 格安書籍を販売し、傍ら製綿を販売する」と書かれていました。また、
「阿部久は、大正二年の広告によれば、製綿、真綿の売買が本業で、新本・古本のほか金銀公債の買入れ、舶来発音機(蓄音機)の販売を行なっていた」
とありました。
この本は1973(昭和48)年に初版が発行されており、この2年後に出た『鶴岡市史 下巻』(鶴岡市)には「書籍商は明治末期の開業という。」という文言が追加されていますが、ほとんど同じ内容が記載されています。自治体史で書籍商を取り扱うのは結構珍しいパターンではないでしょうか(福島県相馬市の『相馬市史』で広文堂書店が扱われているくらいしか知らない)。前述した「1913年に発行された『荘内案内記』」は岸本紫舟 著『荘内案内記 西田川郡之部』という資料で、ここに掲載されている広告では当時の阿部久商店の店内を一部見ることができます。
版元とのやり取りについては、1913年に発行された『博文館発行図書雑誌総目録』(博文館)の「博文館發行圖書雑誌賣捌所店名」に「羽前 鶴岡町 阿部久商店」の記載があることから、博文館とのやり取りがあったことは間違いなさそうです。
次に郵便局を営んでいたことについてです。こちらは国会図書館デジタルコレクションにある『職員録 明治38年(甲)』(印刷局)の「仙臺郵便局管轄區内 三等郵便局」に「鶴岡荒町 阿部久四郎」の記載を確認できました。これにより1905年には阿部久書店が郵便局をやっていたことが確定しています。髙瀬によれば
「明治一〇年代には界隈の郵便局を受け継いで、荒町郵便局も営んでいた」
であるのですが、『鶴岡市史 下巻』(鶴岡市)では
「明治三十六年十二月十日には荒町郵便受取所(受取人阿部久四郎、綿業)を設置した。(中略)明治三十八年四月一日から「鶴岡七日町郵便局(三等)」、「鶴岡荒町郵便局(三等)」と称された。」
とあり、明治初期から郵便局をやっていたという記述を未だ得ることができませんでした。ここについては鶴岡市の郷土資料館や図書館での調査が必要なのかもしれません。
郵便局自体は
「昭和の時代に入っても続けられ、阿部さんのお祖父さんが引退する際にやめることになり」
とありました。こちらについては『鶴岡市勢要覧 1951』(鶴岡市)に「鶴岡荒町郵便局 阿部整一」とあったので、戦後も存在していたことが確認できました。
鶴岡の本屋
阿部久書店以外にも鶴岡の本屋についてほんの少しだけ触れてみようと思います。『全国書籍商総覧』(新聞之新聞社)には「ふみや書店 伊東常次郎」、「エビスヤ書店 小池繁松」、「弘文堂 地主久藏」、「知新堂 日向源吉」が鶴岡の本屋として載っています。『鶴岡市史 下巻』(鶴岡市)や『鶴岡百年のあゆみ 続・城下町鶴岡』(鶴岡郷土史同好会)には先述した以外に
「佐藤茂一 若葉町 主に新聞雑誌の取次店である。」「地主忠蔵 五日町 地球堂といい雑誌も取り次ぐ。」、「栄華堂 五日町 恵比寿屋分店で、書籍のほか蓄音機、絵はがきなどを販売する。」
と3軒の記載を確認しました。
栄華堂について『鶴岡百年のあゆみ 続・城下町鶴岡』では
「薬屋小池藤治郎の経営であったが、大正十年(一九二一)小池繁松が分家し、エビスヤ書店として独立した」
とあります。また、『全国書籍商総覧』の「エビスヤ書店 小池繁松」では
「五日町エビスヤ藥店三代目藤治郎氏の眼にとまり、二十四歳の折懇望されて同本店へ迎へらる、斯くて大正十年十月書籍部を独立せしめ」
とあり、前者の記述に近い内容が確認できました。これにより、栄華堂=エビスヤ書店であることがわかりました。なお、小池繁松について、『全国書籍商総覧』に
「同市十日町の知新堂日向源吉氏は實兄に當る」
とあり、小池繁松は小池家へ養子へ行ったことがわかります。
鶴岡で古くからあった本屋はどうやら弘文堂(地主書店)であり、『鶴岡百年のあゆみ 続・城下町鶴岡』では
「地主書店の創設者地主文蔵は、江戸時代の御用達地主長右衛門の二男文弥の長男で、明治の始め十五、六才のころから本屋をはじめたという」
とあり、『全国書籍商総覧』の「弘文堂 地主久藏」には
「同店は初代久藏氏が現地に於て創業せしものにて當時鶴岡にては書肆とては僅かに同店在りしのみ、從つて獨占的優位に立てり、現當主は實に四代目に當り、名立たる老舗なると代々の貴重な労力とにより店業大いに賑ひ、同地有数の大書肆とは成れり」
とあります。「地主文蔵」、「地主久藏」と名前が違うところが非常に気になるところですが、五日市にあった弘文堂(地主書店)がかつて鶴岡では非常に大きい本屋あったことは間違いなさそうです。
買った本
今回買った本は『人と建物がひらく街の記憶― 山形県鶴岡市を訪ねて(2)―』(弘前大学出版部)、『鶴岡雑記帖』(阿部久書店)、『鶴岡百年のあゆみ』(鶴岡郷土史同好会)の3冊。
3冊とも鶴岡についての本なので購入。『鶴岡雑記帖』については大泉散士こと阿部整一(阿部久書店3代目)の本のため、真っ先に購入。いずれの本も、本稿執筆に際して貴重な資料となりました。
『人と建物がひらく街の記憶― 山形県鶴岡市を訪ねて(2)―』、山形県内の古本屋の数が2軒と書かれていたのには、「あれ、香澄堂と紙月書房をカウントしていない?」(紙月書房は2023年11月末に閉店)と思ってしまいました。この2軒の根拠、非常に気になります。いずれにしても弘前大学が阿部久書店のオーラルヒストリーを参考文献付きで取ってくれており、非常にありがたかったです。
この前編もあるようなので、今後は前編も買って鶴岡の解像度を上げておきたいところです。