地下鉄の京都市役所前駅からすぐ。佐々木竹苞書楼から少し歩いたところに、今回訪れた其中堂はあります。「きちゅうどう」と読むこの本屋、建物がなかなかに古そうです。木曜休みのため、日曜日でも本屋巡りができる1軒です。
店の外はバーゲンブック、中に入ると左は新刊右は古書(本の色と値札で判断)、右奥は和本というレイアウト。扱っている本は主に仏教関連の書籍でした。ゆっくり見て回ると、店の両サイドには版木がかかっていました。これはおそらく掛け軸用でしょう。それ以外には机や扉に板木のようなものが組み込まれていました。建物の空間に圧倒されつつ、京都の本屋を巡るにはやはり仏教の知識を入れておくべきだったと後悔しながら棚を物色していました。
棚をじっくり見て、会計のタイミングで話を伺う。聞くとこの建物は昭和5(1930)年のものとのこと。お寺のような意匠でもっと古い建物かと思いきや、昭和初期の建物で少し驚きました。店についても伺うと、別の所からこちらに移転してきたとのこと。
個人的に気になっていた、名古屋にあった其中堂という名前の店についても聞くと、向こうが本店で、こちらが京都の支店だったとのことです。この名古屋の其中堂、金沢文圃閣から出ている『出版流通メディア資料集成(三) 地域古書店年表―昭和戦前戦後期の古本屋ダイレクトリー』によく名前が出ているところです。
いつも通り、本屋を巡っている旨を話し、こちらに伺う前には法蔵館書店と永田文昌堂に行ったことなどを話しました。ちょうど法蔵館の話で丁子屋の名前が出てきたのですが、知っていたため話はかなり弾みました。後で確認すると、店にかかっている書、に「寸心」という文字を確認できました。この「寸心」を調べると西田幾多郎とのこと。西田幾多郎も其中堂を訪れていたようです。
さて、店舗の机や扉に組み込まれている板木のようなものについて伺うと、やはり板木でした。店の方に話を聞くと、『詩仙』の板木とのこと。後ほど其中堂のFacebookページを確認すると、「小店の入り口扉とカウンターには、人知れず版木が埋め込まれておりまして、それは『詩仙』という石川丈山の編集した漢詩集なのです。」との記述を確認。
石川丈山というと、一乗寺にある詩仙堂を開いた人物です。ちなみに詩仙堂から歩いて5分くらいのところには、徳川家康に命じられ伏見版(圓光寺版)を開版した圓光寺もあります。
全く関係ないですが、個人的には一乗寺中谷がオススメです。この『詩仙』、「詩仙 石川丈山撰」で検索をかけると一番上に来るのが早稲田大学の古典籍データベース。こちらに掲載されているのは、其中堂の版ではなく、「林和泉掾」なる人物の版(黒川真頼なる人物の旧蔵書とのこと)でした。
この「林和泉掾」は出雲寺和泉掾のことです。出雲寺について、手元にある宗政五十緒の『近世京都出版文化の研究』(同朋舎)を確認してみると、「江戸時代に、和泉掾を受領し禁裏御用を勤め、また、江戸においては徳川家の御書物師となって幕府の御用をも勤めた出雲寺家は、書肆の家格としては同業者中第一といってよい。この出雲寺家は、後述するが、江戸中期に京都店と江戸店とが二家に別れた。」と記述があり、近世の出版史において重要な書肆であったようです。
この板木で出版も行っていたようで、出版については店の方から「今も細々とやっている」とお話をしていただきました。其中堂が出版した本は、店の平台にもあったのですが、この翌日伺った貝葉書院にて販売されていることを確認しました。
この京都と江戸に分かれたことについて、さらに井上和雄『慶長以来書賈集覧』(彙文堂、後に言論社による復刊)の増補版である『増訂 慶長以来書賈集覧』(高尾書店)で「出雲寺和泉掾」について確認すると、たしかに京都と江戸に別れていることが確認できました。江戸の出雲寺は、井上の本によれば更に枝分かれしていたようです。いずれも明治期には書肆を廃したようです。
出雲寺とは関係ない話ですが、『慶長以来書賈集覧』について、言論社版は高尾書店版に比べページ数が少ないため、持ち運びに便利であると、今回京都の本屋を巡って感じました。高尾書店版は其中堂を訪れた後、キクオ書店にて購入しました。
おそらく今日でも『慶長以来書賈集覧』は非常に有用な資料であると、個人的には確信しています(以降、『慶長以来書賈集覧』は高尾書店版で話を進めることとする)。岩波新書で刊行されている脇村義太郎の『東西書肆街考』とともに、京都の本屋を巡る際には必須となる本であることは間違いありません。
もう少し其中堂について掘り下げて行きたいと思います。現在の店舗になる前は別の所にあった、という話と名古屋が本店だったという話について。これは『日本出版大観』(出版タイムス社)や『全国書籍商総覧 昭和10年版』(全国書籍商総覧)で確認が可能です。
その前に、京都の其中堂がいつ開店したかを見てみましょう。『全国書籍商総覧 昭和10年版』の「其中堂京都支店 三浦良吉」の項目を確認すると、「氏は明治二十一年十一月三日古本会の巨商書林其中堂の次男に生まる、名古屋商業學校卒業後、同三十九年京都支店として開業」とあります。
また、『日本出版大観』の「其中堂 三浦良吉氏」の項では、「本店は名古屋市古本界の巨商其中堂の支店で、明治三九年十月先代三浦兼助氏(旧字体は表示できないため新字で表記)が之を創設した。」とあり、双方とも1906(明治39)年であることが書かれています。
さらに、国会図書館デジタルコレクションで確認が可能な『其中堂発売書目 第二十六号』(其中堂)を確認してみます。そこには「京都支店の御披露」という宣伝があり、そこには「明治三十九年十二月一日開業日」とありました。『其中堂発売書目』と『日本出版大観』の記述に相違を確認しました。どっちが正しいのかはもう少し掘り下げ(当時の新聞広告を確認するなど)れば確認できると思いますが、一旦保留にします。おそらくこれ1つでかなり時間がかかると思います。
さて、この「京都支店の御披露」には、澤田萬之助という人物と、京都支店の支配人である桑山吉助なる人物の連名で、澤田萬之助より業務一切を其中堂に譲り渡す旨が書かれています。
この澤田萬之助、桑山の話で「浄土宗大本山御用書林澤田吉右衛門」、澤田の謹告では「澤田吉右衛門十一代孫 澤田萬之助」と書かれています。この「澤田吉右衛門」について、井上(前掲書)では「澤田吉左衛門 麗澤堂 正徳ー明治 京都知恩院門前(古門前西入北側)」と記述がありました。「京都支店の御披露」で書かれている名前と異なっているため、さらに次世代デジタルライブラリで澤田の屋号である麗澤堂で検索をかけてみると、麗澤堂が発行した『法乃絵草紙 末』の発行兼印刷者に「澤田吉左衛門」と書かれていました。
「澤田吉左衛門」を「澤田吉右衛門」と間違えたのか、それともこの時は吉右衛門を名乗っていたのか。はたしてどちらなのでしょう。個人的には間違えたと思ってはいるものの、未だ確証が得られません。其中堂が澤田麗澤堂を引き継ぐことについて、澤田は「私幼年にして營業致し難く候に付」とあり、幼年のため、事業継続が困難であることを理由にしています。また、其中堂については「豫て先々代より懇意なる名古屋の同業者。其中堂主人三浦兼助氏」としており、以前からの付き合いがあったことがわかります。
話が長くなりましたが、其中堂開業時には現在のところではなく、知恩院の古門前にあったことは確認できました。この時の住所は「京都市知恩院古門前石橋町」となっていました。1907(明治40)年に発行された『全国書籍商名簿』では、「古門前小堀西ヘ入ル町」の記述でした。1914(大正3)年発行の『其中堂発売書目 第三十三号』にて京都支店の住所が「京都市寺町通り松原南へ入ル東側」となっており、知恩院の門前から移転していることがわかりました。2回は移転していることがわかりました。
其中堂の本店が名古屋だった話については先述した『日本出版大観』の「其中堂 三浦良吉氏」の項、「本店は名古屋市古本界の巨商其中堂の支店」でわかると思います。ただ、これだけで「はい其中堂についてはこれでおしまいです」とやるのもお後がよろしくないようなので、もう少しだけ、掘り下げてみます。
ここでも『全国書籍商総覧 昭和10年版』と『日本出版大観』を使い、見ていくことにします。名古屋其中堂の創業時期について、『日本出版大観』の「其中堂 三浦兼助氏」によれば、「本店は明治十年十月二日現在地において先代兼助氏によつて創業された。」とあります。
『全国書籍商総覧 昭和10年版』の「其中堂書店 三浦兼助」では、「幼名浦三、兼助は累代の家名」という記述を確認しました。其中堂当主である三浦兼助の名前は襲名だったようです。このパターン、京都では佐々木竹苞書楼が佐々木惣四郎を、藤井文政堂が藤井左兵衛を代々名乗るものと同じものでしょう。京都以外の例では、山形の八文字屋書店が代々五十嵐太郎右衛門を名乗っていました。
この三浦兼助(其中堂創業者)、『全国書籍商総覧 昭和10年版』では創業について「沈滞せし父祖の家業たる酒商(屋號吉良屋と稱せり)より傳じて何の背景をも持たず、明治十年二十二歳の若冠にして奮起、徒手に唾して其中堂を獨創」とあり、酒屋から書籍商に転じたことがわかります。
屋号である吉良屋ですが、其中堂のHPにも入っています。ちなみに店の由来について『全国書籍商総覧 昭和10年版』によると「恍兮惚兮其中有像」(老子)(恍たり惚たり、その中に像有り)とありました。漢籍由来だったようです。
余談ですが、『全国書籍商総覧 昭和10年版』の「其中堂書店 三浦兼助」では京都支店について「明治三十九年京都市寺町三條北に支店を創設」とありますが、この住所は同書の「其中堂京都支店 三浦良吉」に記載されている住所であり、創業時の住所とは異なっています。正しくない情報が載っている箇所がその他の書店にもあると思われるので、資料は1つだけ見るのではなく、複数の資料を読み比べることをかなり勧めたいです。
今回買った本は『讃岐妙好人 庄松ありのままの記』(永田文昌堂)の1冊。永田文昌堂の本なので購入してみました。庄松はどうやら「しょうま」と読むようです。妙好人というのはどうやら浄土真宗における篤信者のことを言うそうです。
書名の通り、庄松妙好人は讃岐(香川県)の方のようで、勝覚寺という寺が「妙好人庄松同行ゆかりの寺」と言われているようです。また、この庄松について鈴木大拙が紹介しているようなので、こちらも読んでみたいところです。
また、目録である『其中堂發賣書目 第142号』を分けていただきました。この表紙に載っている「休請幾分减 曽成定価規 従来憑眷順 不要冷児窺」は、明治の頃に発行された『其中堂發賣書目』にも載っている文言です。今度はここで、和本を買ってみたいところです。