忙し過ぎてイライラしたりやる気が出なくなったりしたとき、最後に自分の背中を押すものはなんだろうかと考えたとき、残念なことに僕の場合のそれは憎しみだった。
恵まれてこなかったわけじゃない。運も良い方だったと思う。でも心に澱のように溜まるもの。問題というにはありふれていて言葉にするのも憚られるような、でもたしかに黒く濁っているもの。
そういったものが自分の意識の奥底にはいるように思う
連れ合いに勧められて『崖際のワルツ』を読んだ。『青野くんに触りたいから死にたい』の著者・椎名うみさんの短編集なのだが、掲載作品「ボインちゃん」「セーラー服を燃やして」を見て、そういいった自分の中の暗いモチベーションのことを整理できたように思う。
中学時代に精神的に引きこもっていた時期がある。たしか3年ほど。ある日、学校にいる人間と話すことが心底馬鹿らしくなってずっと本ばかり読んでいた。話すとすれば幼少期から遊んでいた従姉妹とその親と、あと少し自分の兄と。それくらいで後の時間は本を読むかゲームをするか漫画を読んでいた。
今から思えば自我の芽生えなんだったと思うのだけれど、自分と他者が違うことそれ自体はまあ良いとして他者に自分の考えや感覚を説明することの価値を信じられなかったというか、そもそも相手自体も他者を想定して話していない(から自分もそうする必要がない)ように感じてしまっていたというか。
幼さ故の過ち、と言えば簡単だけれどもそこからコミュニケーションの基礎や前提を学習し直すのは本当に大変だった(たぶん今でもその途中だ)。
その学び直しみたいな期間の中で、馬鹿にされたり無視されたりとかいろいろ嫌な経験を繰り返したのだけれども、その時にこの憎しみの感覚は生まれていて、まあ誰もが思う「今に見てろよ」みたいなのをちょっと強くした気持ちである。
それ自体は普通の感情なのだけれども、それが今でも残っているのは嫌な経験やそもそも精神的に引きこもった理由の一端が日本的な共同体の性質にあると思っていて、例えばそれは「空気を読む」だとか「俯瞰する視野の欠如」だとか「嫉妬」だとか「言外の要求」だとか「無自覚の暴力」といった言葉が挙げられる。
言ったり書いたりした言葉をそのまま受け取らずに無駄に勘ぐったり言っても書いてもいないことをさも実際に言ったり書いたりしたかのように感じたり考えたりする人とかそれを当たり前とする集団とか。
構造自体が間違っているのに個人に責任を帰そうとする姿勢とか言動とか。
自分のやっていることがどういうことを意味するのかどういう効果をもたらすのかを考えないで良いこととする慣習とか風習とか。
全部自分に帰って来ることであるし自分がそういう日本的共同体の文化・慣習側にいることも分かっているしその中に自分の身を仮に置くとしたら加担してしまう自我の弱さを自覚しているからこそ、そこに対する憎悪が激しくある。近親憎悪みたいなものだ。
そこにいても何にもならないし未来はないと強く感じるし何より面白くない。そのことはいまの日本社会を見れば分かっていただけると思う。
(そう言えば『崖際のワルツ』でも"つまらないことは悪だから"というセリフがあった。これはまあ関係ないか。)
だから、組織から離れるし組織を信用できない。外側の個人として何かを成していかなくてはいけないと強く思うのである。そして、日本社会を出られない完全に外側になれない自分の弱さも分かっていて、だからこの憎悪は実は自分にも向かっている。
でも、世の中はクソッタレだって思うようなこんな気持ちは誰にでもあるんじゃないかな。
同じ強さで祝福を
ところで、BOOKSHOP TRAVELLER(というかBOOKSHOP LOVERかな)を運営するにあたって、こうしていこう、というか行動指針みたいなものがある。祝福だ。
宗教的な意味合いではない。関わった人々がそれぞれにとっての良い方向に行けますように。というくらいの祈りのようなものだ。
『日本沈没』の一色登希彦版コミック最終巻にこういう台詞がある。
"いいかね小野寺くん、呪う力を吐き出せるのなら、同じように祝福する力も持たんといかん。"
(『日本沈没』は映画版も観たし原作も読んだけど一色登希彦版コミックが一番好きだ。それは日本が沈没するに当たっての社会の空気感を批判的に書きつつも、主人公がその日本社会の人間であることから離れられないことや、日本社会のどうしようもなさを引き受けた上でどうするかという姿勢や考えに手を伸ばそうとしているからだ。)
僕(やもしかしたら今を生きる多くの人)と同じように世の中に絶望と諦観を持つ主人公に、とある年長者が諭すように語りかけるこのシーンは僕の読んだ漫画の中でだいぶ上位に入る名シーンなのだけれども、つまり僕も憎しみがモチベーションにあるのだからこそ、同じ強さで関わる人を祝福できたらいいなと思うのだ。
これは僕の祈りであって実際にできているかどうか分からないけれども、少なくともそう思って行動すること自体はできると思っていて。この祈りと行動が回り回って自分を生かすし、そうなるような場所にいなければと思っている。
そうしてこの文章の中で憎悪の話と比べて祝福の話が短いのは先に書いたようにこれがこれからの行動についての話で未来についての話だからだ。
憎悪があるからこそ祝福が生まれる。祈りはきっと絶対的に理解し合えない他者がいるからこそ生まれて、裏切られて憎しみが生まれて、それでも自分が生きるためにこそ祈らなければならないのだと思う。
何を言っているか分からない人も多いかとは思うが少なくとも僕の中ではそれでバランスが取れている。
分かってくれとは叫ばないが分かってくれたら幸いだ。そうか。これも祈りか。