本稿は、愛媛堂店主山根洋一氏より提供いただいた資料を参考にしています。本来ならいただけるわけのない貴重なものをある意味で託していただいた、と認識しています。本文開始に先立ち、まず御礼申し上げます。ありがとうございます。
今回は文量がやや長くなるので前後編の2部構成となります。予めご容赦ください。さて、以下、本文となります。
***
「親譲の無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」。自分の場合は、「生来の無計画で本屋巡りの時はヘタばかりしている」となってしまいます。そんなことはおいておいて、夏目漱石、正岡子規などの文人や『坂の上の雲』で有名な秋山兄弟を輩出した松山。松山城の下に広がる商店街に、今回行った愛媛堂書店はあります。
本題に入る前に、本稿執筆時の松山の本屋状況を軽く書いておきます。新刊書店では、紀伊国屋が松山市駅(市駅)のいよてつ高島屋内に、ジュンク堂書店も市駅近くに店を構えています。
松山のアーケード街である銀天街には、ここ松山で創業した明屋書店の本店があります。また、明屋書店は大街道にもSerenDipという店をオープン。こちらは本をベースにしたライフスタイル提案型の書店となっているようです。数年前に訪れたことがあるのですがあまり記憶がなく……という状態です。
一方の古本屋は、松山城の近くに愛媛堂書店、道後公園(湯築城跡)近くには古書猛牛堂、市駅近くでは本の轍と古書社日、市内電車と郊外電車の接続駅である古町の近くにはトマト書房があります。どの古本屋も駅や電停からそこまで遠いわけではないので、市内電車をうまく使うと1日くらいで回り切ることは可能だと思います。ただし1軒に使える時間が少なくなる、ということがありますが……。
さて、話を愛媛堂に戻しましょう。愛媛堂書店は、今松山市で営業している古本屋の中で一番古い古本屋となります。ここへ行く前日に古書猛牛堂の店主から興味深い話を聞き、「愛媛堂は見に行くべきだ」ととても推されたので、非常に見るのを楽しみにしていた本屋です。
棚は郷土資料が多め、その他文庫等、手に取りやすい本も置いてあります。天井まで伸びる本棚に挟まれ、上の方にある全集などを見るのはやはり「古本屋に来たのだ」と感じさせます。
買う本を持っていき、会計のタイミングで話を伺うと、愛媛堂を開くまで店主は神田神保町の南海堂書店で奉公(修行であるが店主が「奉公」と言っていたのでそのままの表現で今後記載します)していたとのこと。そして、南海堂時代の同期は早稲田にある五十嵐書店の五十嵐智氏(以降五十嵐氏と記載)とのことでした。
愛媛堂の名前も『五十嵐日記』巻末資料の「南海堂関係古書店」に記載があるため、愛媛堂、五十嵐書店ともに南海堂書店から独立した店であることは間違いありません。
しかしながら『五十嵐日記』上では愛媛堂、ならびに山根氏に関する記述が見つからないため、本資料から店主と五十嵐氏との間でどのような関係があったのか知ることはできませんでした。ただし、五十嵐氏と同期である愛媛堂店主が南海堂書店にいた時代については、おそらく『五十嵐日記』を読んでいくことによってある程度は明らかになるのかもしれません。
当時の市は現在の入札制ではなく振市(振手の声に合わせて参加者が発声して競り落とす)であったと『五十嵐日記』には記載があるため、南海堂での奉公時代は店主も声を上げて競り落としていたのでしょう。ただ、もしかすると最初のうちは有力店に一方的に競り落とされる、ということもあったのかもしれません。この辺の詳細が残っているわけではないため、自分の推測(もはや憶測)となることご容赦ください。
五十嵐氏と南海堂書店で同期ということは、おそらく青木正美氏(堀切の青木書店)も同年代なのかもしれません。他にもいるかもしれませんが、本稿執筆時にぱっと思い浮かぶ人が青木氏くらいしかいませんでした。また、この頃ならば反町茂雄氏が現役の時代なはずなので、もしかすると会っていたかも、しれません(ここは推測、と書かなくてもほぼ会っているとは思うがそれがわかる資料がないため推測です)。
神田の南海堂での奉公の後、広島南海堂(南海堂書店の広島支店)へ移動。広島南海堂の店主は愛媛堂店主と親戚関係だったとのこと。古書の腕を磨き、1963年にこの大街道の地に独立して創業。創業時は現在の店舗より50メートルほど大街道よりにあった仮店舗で25年ほど営業していたそうです。
仮店舗での営業の後、現在の地へ移転して現在まで古本屋を営んでいます。60年近く営業している古本屋のため、おおよそは代替わりを行っているかと思いきや、現在まで一代で営業しているとのこと。そのため話を伺うと当時の松山の本屋など、大変貴重な話を伺うことができました。
前編はここまで。後編では松山の古本屋事情について伺った内容となります。