歌舞伎町の深夜に開店する謎の本屋「cohon」。2019年6月から半年かけて連載れた店主の人気連載「真夜中の本屋さん」が装いも新たに復活にしたのが2020年6月のことだった。
気がつけばあれから一年以上経ち、その間、管理人の和氣も運営する本屋BOOKSHOP TRAVELLERを移転させたりとなんだかんだと忙しかったのであるが、果たしてcohonはどうだったのだろうか。
久しぶりに連載の再開をお願いして返ってきたのはまさかの永い言い訳だった。
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第二話「(下)北(沢)の町から 21'〜言い訳〜」
私は恐れていた。
あの下北沢という街を。
いや下北沢という街にあるブックショップトラベラーという、あの書店を。
いや、さらに正確に言えば下北沢という街にあるブックショップトラベラーという書店の店主であり、このコラムの発行者W氏を。
そして、まさに正鵠を射た表現で言うならば、下北沢という街にあるブックショップトラベラーという書店の店主であり、このコラムの発行者W氏の口からいつかは発せられるであろうあの言葉を、だ。
それは以前、私が書いていたあのコラムの話。シーズン1はひとまず終え、しかしシーズン2の一話で休止したままになっているアレだ。
いつもお互いの近況やオススメの本の話などをしたあと、私はさりげなくスッと帰っているのだった。アレの話が出る前に。
そしてその日。梅雨が間もなく終わりを告げようとしていた、ある蒸し暑い午後の日のこと。
W氏とはやはりいつものようにお互いの近況報告の話で盛り上がっていた。
そして不意に、彼はあの言葉を発したのだった。
「で、コラムの続きはどうするの?」
私は思わず卒倒するかのごとくに目をつむり、天をあおいだ。
やはり、忘れていなかったか───。
前略。そりゃ季節はもう、夏なわけで。発行者としてW氏がそれを忘れるはずは……、ないわけで───。
若々しい蝉しぐれの残響とさだまさしの優しいスキャットだけが、私の耳の奥でこだましていた。
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正直なところ、下北沢の喧騒はあまり得意ではない。
そこかしこにある小劇場に古着屋、CDショップ、レコード屋。そしてなぜかひしめき合うカレー屋、シーシャ屋……。
今もアングラなカルチャーを色濃く残す、独特な街のにおいがある。
しかし再開発とともに古く汚れた下北は、まるで大資本が主導する浄化作戦でどんどんケレン味が洗い落とされていくように見えた。おしゃれなカフェやヘア・サロンもずいぶん多くなった。
記憶の中にある下北沢駅はまだ雑多な地上駅で、駅を降りてすぐに戦後の闇市のような飲み屋街があった。モツ煮や串物を頼むたびにアルミのベコベコの入れ物に色とりどりのプラスチックの札が投げ込まれ、その種類と枚数で会計をする。
もう10年以上昔の記憶だ。
古い下北も、新しい下北も、しかし総じて若者の街と言える。私のような人間には場違いな気がして、中心街や飲み屋にはいつしか少し距離を置くようになっていた。
しかし少し奥まったところを覗けば今も昭和、平成、令和の地層があり、その積み重なりをそこかしこに見つけることができる。
その点は歌舞伎町も少し似た状況かもしれない。もちろん大きな資本の流入による街の変化に、歌舞伎町も巻き込まれ続けている。
しかし何よりこの一年。
歌舞伎町はコロナ報道の矢面であり続けた。
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さて歌舞伎町で絵本と珈琲を売る店、cohonの開業とほぼ並行して書き進められた一連のコラムは、自分で言うのも気恥ずかしくはあるが、少なからぬ反響があった。
まぁ『絵本と珈琲』、『深夜』、『歌舞伎町』、そして『違法営業』。
これら、飛びきりの材料を一緒に煮込んでいるのだから、誰が作っても最低限、美味しいスープにはなるテーマと言えよう。
しかし人間、一年も経てばどんなことにも慣れてしまうものだ。
警察に通報されることは完全に日常茶飯事となった。目の前で殴り合いが起きても特には動じなくなり、街ゆく人も「また謎の珈琲屋がいる」として驚かなくなっていた。
珈琲を買いに来たスキンヘッドのいかつい男が開口一番に「カタギなんで、大丈夫です」と言うが、本当に一般職であれば自分のことをカタギとは自称しないと思う。
警察に書かされた『二度と路上販売はしない』という誓約書はこれまでに三枚となり、それどころか警察官とも名前で呼び合うまでの関係になった。
開業初年であったなら、これらはすべて大事件なのであった。その興奮と熱気があればこそ、そのまま文章にすることができたのである。
しかし二年目、それは『cohonあるある』な日常と化していた。
営業を終えた商店がシャッターを下ろすことに何の感慨もないように、弊店が通報されて警察を呼ばれることに何のドラマも感じなくなっていた。
結果、コラムのシーズン2はその第1話を書いたきり、そのままそっと静かにフタをすることにしたのだった。
そして、話は冒頭へと戻る。
「で、コラムの続きはどうするの?」
さだまさしの歌声とともに遠く富良野へと離脱していた私の幽体が、一瞬で下北沢に引き戻される。
目を開けると、W氏はいつも通りにニコニコしていた。
よかった。とりあえず、『一話で放置』に関して怒ってはいないようだ。
そして少々の話し合いの結果、『コロナ禍の歌舞伎町』という点に着目してみてはどうだろうか、ということになった。
正直なところ、難しいテーマであることは否めない。この文章を書いている時点で終息の糸口さえ見えていない問題だ。
そしてすべての人に何らかの形で関わるテーマである以上、意見の相違や批判も受けざるを得ない部分があると思う。
ただ、歌舞伎町に住み、歌舞伎町の路上で店を構えてきたからこそ見える視点もあるはずである。
この街の変化、人の動き。これらを書き残しておくことは何かきっと意味のある記録になると思い、改めて文章にしてみることにした。
またお付き合いいただければ幸いです。
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追記
前回、とても人気があったスタッフ(特に第2話に詳しい)はその後、韓国へ整形手術を受けに行ったきり消息不明となった。
もし、それらしき人を見かけた場合には弊店へご一報いただけると幸いである。