本稿では、岡山県立図書館に依頼したレファレンスを参考にしています。本稿以外の調べ物でも岡山県立図書館にはとてもお世話になっており(岡山に行くときはかなりの頻度で立ち寄って資料調査を行なっているところです。三村陶景の備前焼学校関係、そろそろ資料を掘らねば……)、本屋関係でようやくレファレンスを依頼することができました。この場を借りて感謝申し上げます。
岡山市の少し北の方。住宅街の中に今回訪れた研文館 吉田書店(以降、「吉田書店」と記す)はあります。岡山市内の新刊書店で伺ってみたかったうちの1軒です。他には山田快進堂も行ってみたいのですが、こちらは岡山市ではなく玉野市。451BOOKSと一緒に行程を組むとよさそうな場所です。
この吉田書店、以前は表町にありましたが、現在は伊島町へ移転。外商を中心に営んでいる本屋です。「外商を営んでいる」と言っても、店売りもやっている店なので、本連載の対象としてます。
住宅のような店のドアを開ける。店売りのスペースは小さいものの、郷土関係の本や文芸書など取り扱っていました。今回は冊数が少ないので、少し細かめに物色して会計のタイミングで話を伺うことにしました。
店について
いつもの口上の後、軽く話を。吉田書店について事前に調べていたこととしては、小学館創業者の相賀武夫が働いていたことくらい。「伺ってみたかったうちの1軒」と書いておきながら全然調べてきていないという体たらく。
今回、本当にたまたまなのですが、会長もいらっしゃるということで会長とも話をしていました。どうやら集英社で働いていたようで、ここにも吉田書店と相賀武夫のつながりのようなものが見えてきます。
その他店での話では、岡山文庫を出している日本文教出版の創立に、ここ吉田書店が関わっていることを教えていただきました。岡山に行くとついつい買ってしまいたくなる岡山文庫、個人的に買って持って帰りやすい郷土資料としてかなり重宝しています。読み物としても面白いですし、オススメです。
それ以外にも旅の話など盛り上がり、かなり時間を使ってしまいました。外商メインの本屋なので、2~4月に伺わなくて本当によかったです。この時期、教科書関係で非常に忙しいので。
日本文教出版の倉庫が近くにあるので、本当にたまたまですが取り次いでいただき、吉田書店を出た足で日本文教出版の倉庫を見せてもらいました。大量の岡山文庫を見ることができたのは非常に嬉しいものです。歩いて数分したところにバス停があるので、岡山駅から向かう際はバス利用を推奨します。一度だけ吉田書店に休日に行ってしまい、開いてない……と思いながらトボトボと、駅まで25分くらい歩いて戻ったことがあります。
資料から吉田書店を見てみる
吉田書店について、店舗HPの社歴が非常にしっかりしており、「正直書かなくてもいいのでは……?」とややネガティブな感情になってしまいましたが、資料を使って話を書かねば本連載の味が9割減だろう、と思っているので書いていきます。
社歴に参考資料がきちんと載っているので大変ありがたいです。資料探しは非常に時間がかかるものですから。本連載などでおなじみの資料である『全国書籍商総覧』(新聞之新聞社)や『日本出版大観』(出版タイムス社)やその他資料も見ていくことにしましょう。
吉田書店は吉田朔七が1875(明治8)年に創業したようです。この創業について、入野和生『創業100年企業の経営理念 : next 100年どう生きる. 2』(吉備人出版)の「研文館 吉田書店」を確認してみると、
「研文館吉田書店は1875年(明治8年)吉田朔七によって創業された。屋号を鳥羽音屋(呼称は不明)と称した銀細工屋で、店舗を岡山市山崎町(現北区野田屋町)に構えていた」
とありました。この屋号について尾崎秀樹、宗武朝子編『日本の書店百年 : 明治・大正・昭和の出版販売小史』(青英舎)で4代目の吉田信一が
「鳥羽屋という屋号で銀細工をやっていた」
と発言していることを確認しました。屋号の不一致はあるものの、同じようなことを書き残しているので、かつては銀細工をやっていたのかもしれません。また、書籍を扱うきっかけについて、入野は
「店舗の片隅に、銀細工と共に家で所有していた書籍を古本や貸本として戸板に並べて販売した。(中略)大阪に行って和綴じの本を仕入れ、店舗に並べて販売した」
と書いています。はじめから書籍専業であったのではなく、銀細工のついでに本を売り始めたらよく売れたので後に専業になった、というようです。創業初期の仕入れについては吉田信一も
「明治の初め頃、「四書五経」など大阪あたりから仕入れて」
と発言していました。
それ以外にも、小学館の社史である小学館総務局社史編纂室編『小学館の80年 : 1922~2002』(小学館)にも吉田書店の始まりは吉田朔七が銀細工商を営む傍らで始めた古本・貸本が案外流行ったとなっています。岡山県立図書館へのレファレンスでは、「明治8年頃の同時代記録としての「研文館」を見出すことはかないませんでした。」との返答を頂いているため、創業年を遡って行くことは非常に困難であると判断し、この辺にしておこうと思います。
また、吉田信一によると、
「吉田書房と、もう一つ東壁堂という名前を使っていたらしい」
と、吉田書店の名前について発言しています。東壁堂という堂号は吉田信一曰く
「中国では火事なんかあった時に貴重な書物がなくならんように、東の壁に入れて塗りつぶした故事来歴から」
取ったとのことです。この東壁堂は古本屋の名義だったようです。新刊書店だった場合は非常に調べやすいのですが、この時代の古本屋の場合はかなり調べにくい。そしてこの「東壁堂」という堂号、ただ単に検索で調べようとすると、名古屋の永楽屋東四郎(片野東四郎)が大量に出てくるのです。東壁堂については一旦諦めて、「吉田書房」について少し見ていきます。
国会図書館デジタルコレクションを調べてみると、山本頼輔著『日本中歴史』(吉田書房)のように、たしかに吉田書房の名称を確認することができました。吉田書店の出版関係については後ほど見ていくことにしましょう。
ここ吉田書店、相賀武夫以外にも西大寺町にある大森隆文堂書店の大森茂治という方が独立したようです。それ以外にもどうやら小学館総務局社史編纂室編『小学館の80年 : 1922~2002』(小学館)によれば創業メンバーである林麟四も吉田書店出身とのことです。吉田書店出身者、他にも探せばもっと出てくるかもしれません。
吉田朔七以後の吉田書店は、2代目の吉田岩次郎が大阪で版元を立ち上げ、岡山の店については3代目になる吉田徳太郎が継承していたとのことが『日本出版大観』(出版タイムス社)に書かれています。正直なところ、『全国書籍商総覧』(新聞之新聞社)の「吉田徳太郎」の項は今回あまり見るところがないと判断し、『日本出版大観』(出版タイムス社)を使っています。
2代目の岩次郎はどうやら『小学館の80年 : 1922~2002』(小学館)によると大阪の吉岡宝文館で修行をしていたようです。この吉岡宝文館については、新聞之新聞社『出版人名鑑』(新聞之新聞社)の「柏佐一郎」を確認すると、吉岡平助なる人物が天明年間に創立したものであるようです。この吉岡宝文館が後に合資会社化し、大阪宝文館となります。
吉田書店と出版
さて、吉田書店は明治の頃から出版事業を展開し、2代目岩次郎の頃から岡山県外に進出していました。この流れを見ていきましょう。
国会図書館デジタルコレクションにて、吉田書店の出版物で一番古いものは、近藤如蘭 (純蔵)『插花之秘訣』(吉田書房)です。「吉田書房」とありますが、住所が「岡山市榮町」であることから、吉田書店と判断しております。また、国会図書館デジタルコレクションでは吉田書店名義での出版は、1944(昭和19)年まで確認できており、戦後になると「研文館 吉田書店」名義での出版となっています。
なお、吉田岩次郎は『小学館の80年 : 1922~2002』(小学館)によれば大阪研文館を経営したようです。この「研文館」が現在吉田書店の店名の前半部、なのでしょう。こちらも国会図書館デジタルコレクションで確認してみると(出版社:研文館 で検索)、研文館の出版地が東京となっていました。これは研文館として書かれている住所が「神田区連雀町18番地」であるからでしょう。この研文館、『官報 1921年10月19日』の広告では表神保町に住所が変わっていることがわかりました。
さて、吉田書店・吉田書房・研文館では主に教科書を取り扱っていました。それ以外にも吉田書店名義では岡山県に関する出版物の刊行も行っていました。これら3つだけでなく、もう一つ、「共同出版社」という名前でも出版活動を行っておりました。ここで少しネタバレなのですが、研文館・共同出版社には相賀武夫も関わっています。相賀武夫についてここでは省略し、会社としての「共同出版社」をメインに書いていきます。
吉田書店の社歴によれば、株式会社共同出版社(これを「共同出版社」とする)の設立は「大正 5年 春」となっています。ここで官報を眺めてみると、『官報 1918年03月06日』に共同出版社の設立に関する登記が載っていることを確認しました。そこに書かれている設立日が「大正七年一月十四日」。本店は大阪。ちなみに『小学館の80年 : 1922~2002』(小学館)では
「二年後(注:前文にて「一九一四(大正三)年」の内容を書いており、ここでは1916(大正5)年)には、資本金二十万円の共同出版社を創業し」
と書いてあります。
この共同出版社、取締役には吉田岩次郎(代表取締役)、岸本栄七(大阪盛文館)、柏佐一郎(大阪宝文館)、大葉久吉(東京宝文館)や和歌山の宮井宗兵衛(宮井平安堂)、長浜の吉田作平(文泉堂)などが名を連ねています。『小学館の80年 : 1922~2002』(小学館)には「大津の吉田幸兵衛」となっているのですがこれは吉田作平の間違いではないかと見ています。この中では吉田作平、吉田岩次郎の本屋が現在も営業しています。この共同出版社、主な出版物は学習参考書などとなってます。学習参考書関係で、共同出版社は官報上で興味深いことを行なっているので、少し見ていきましょう。
研文館時代から発行している『夏休おさらひ帳』という本があります(自分は実物を見たことがない)。この書籍と『夏季學習帳』を(この条件がOR条件なのかAND条件なのか)採用している学校に対し、共同出版社の教育書を抽選でプレゼント、という企画を行っていたようです。見た限り、1919(大正9)年から1922(大正12)年に、研文館と共同出版社の名義で行なっていました。これ以外にも共同出版社は官報へ広告を出していることも確認できました。
さてこの共同出版社、『官報 1924年09月29日』によれば1924年7月1日に吉田岩次郎が亡くなったことがわかります。この後、代表取締役は『官報 1925年06月13日』によると大阪宝文館出身の柏佐一郎に変わっています。その後、『1926年10月15日』によれば1926(大正15)年6月12日に大阪宝文館と合併し、消滅したようです。吉田書店の手から離れてあっという間に大阪宝文館へ吸収されたことがわかりました。
戦後も吉田書店自体は出版活動を行なっていますが、もう一社、別の会社の役職者に吉田書店の人物が就任しています。その会社はどこなのか? 日本文教出版、300冊を超える郷土文庫シリーズである『岡山文庫』を出している版元です。自分が倉庫を見せていただいたのはこの関係があったから、なのかもしれません。日本文教出版については吉田書店HPの社歴でも参考文献として挙げられている『道─日本文教出版株式会社50年小史』(以降、『日本文教出版社史』と記す)が詳しいです。
『日本文教出版社史』によれば、どうやら吉田徳太郎が1958年に社長となり、郷土出版に力を注ぐようになったようです。岡山文庫の出版が始まったのが1964(昭和39)年、社長は吉田研一に変わった頃からでした。この吉田研一については『日本文教出版社史』にある吉田達史「日本文教出版社と地方出版」という文章の中で、「5代目吉田研一(叔父)」とあり、吉田書店の一族であることがわかります。また、岡山文庫については吉田達史(前掲)によると
「岡山文庫がここまで継続しているのは叔父の人間関係に広さが物語っている。」
とのこと。これからも刊行を続けてほしい郷土資料です。文庫で発行される郷土資料、というのは当地に出かけた際に買って帰るのに適しており、なおかつ新刊書店で今も買うことができる、というのは個人的には非常に助かっています。
ある「吉田書店出身者」について
出版関係で有名な岡山県出身者と言えば誰でしょう。現在神田神保町にある内山書店創業者、内山完造でしょうか。ここでは、現在神田神保町にある出版社、小学館と集英社を立ち上げた相賀武夫(祥宏)について取り上げていきます。吉田書店について触れるならば、この人を外すわけにはいきません。
『全国書籍商総覧』(新聞之新聞社)の「相賀祥宏」では、岡山県出身となっています。これはもう少しだけ細かく言うと、岡山県都窪郡加茂村、現在は岡山市になっている地域です。小学校卒業後、県立農学校で勤務の後、吉田書店へ入店。その後は研文館、共同出版社を経て独立し、小学館を創業します。研文館、共同出版社時代は東京支店の主任(研文館)、東京支店長(共同出版社)を任されているところから、吉田岩次郎からの信任が非常に厚い人物であったことがわかります。
相賀武夫について書かれた塩沢実信「小学館の礎・相賀武夫の遺訓」(『月間公論 1989年6月号』所収)には、吉田書店へ入るきっかけとして、県立高松農学校の
「高田馬治が、向学のために役立つ書店で、働くよう斡旋した」
と書いています。吉田書店入店後の相賀武夫の大抜擢については、氏の熱心な仕事ぶりを吉田岩次郎が見ていたからだったのかもしれません。
さて、東京に行った相賀武夫の話は『小学館の80年 : 1922~2002』(小学館)を読んでいただければ詳しく出ているのですが、ここでは少しだけピックアップしていきます。
共同出版社東京支店を独立した組織に改めるという動きが『小学館の80年 : 1922~2002』(小学館)に載っており、その際の法人名が「共同書籍」とありました。これについては『官報 1924年08月15日』に掲載されていることが確認できました。たしかに相賀武夫は共同書籍の取締役になっており、代表取締役に近藤久雄、監査役に柏佐一郎が就任していることがわかります。この共同書籍、『官報 1926年02月08日』に「株式会社南海書院」へ商号を変更する記載が確認できます。この「株式会社南海書院」を、相賀武夫は辞任していることがわかります。
『官報 1926年03月25日』に南海書院の取締役相賀武夫が辞任したことが書かれており、共同書籍=南海書院(商号変更のため)であるので、『小学館の80年 : 1922~2002』(小学館)の話は事実であることがわかります。
実は吉田書店の吉田徳太郎、小学館が発行した書籍の奥付に載っています。1925年8月に発行された『小学4年生 3巻5号』、これの編集兼発行人に吉田徳太郎の名前がありました。後に同年12月に発行された『小学4年生 3巻9号』では相賀武夫に編集兼発行人が変わっています。これは吉田書店の社歴HPの「研文館 吉田書店 および 小学館創業者 略歴」にて
「小学館創業者である相賀祥宏氏がかつて当社の店員であり、小学館の創業から学年別雑誌の基礎を固めるまで、当社2代目 吉田岩次郎、3代目 吉田徳太郎が経営上のパートナーであったためです。」
に合致するように見えます。
また、『小学館の80年 : 1922~2002』(小学館)の「各年次入社名簿」の「1922年」に、「非常勤 編集協力者」として吉田徳太郎の名前が記されています。さらに、小学館の商号を正式に使用する前(小学館の商号使用は『官報 1928年11月30日』に相賀武夫が商号を新設した旨記載あり)の「学習指導研究会」(『官報 1927年02月14日』に相賀武夫が商号を新設した旨記載あり)に関して、1931年に発行された『小学六年生 11巻5号』の「学習指導研究会賛助会員及執筆諸先生並ニ編集同人」に「学習指導研究会編集同人 吉田徳太郎」との記載を確認しました。たしかに小学館発足初期には吉田書店と密接に関係があったようです。これだけでなく、相賀祥宏君追悼録編纂會 編纂『相賀祥宏君追悼録』(相賀祥宏君追悼録編纂會)の発起人、ならびに「追憶」という追悼文を、吉田徳太郎は残しています。
ちなみに、入野和生『創業100年企業の経営理念2 : NEXT 100年どう生きる』(吉備人出版)の「研文館 吉田書店」に
「小学館のロゴは吉田岩次郎のデザインによるもの」
とあるのですが、こちらは今のところ資料上からは真偽不明です。
買った本
今回買った本は、村中李衣『奉還町ラプソディ』(BL出版)。「奉還町」がついていたため購入しました。奉還町は岡山駅から歩いてすぐのエリア。一度歩いたことがあるのですが岡山市内に長期滞在する際にはぜひここをぶらりとしたいところです(岡山県に行く場合、今のところほぼ確実に伊部に宿泊しているのでいつ機会ができるか……)