河原町五条のバス停で降り、木屋町通を北に進むと今回訪れた山城屋藤井文政堂(以降、「藤井文政堂」と記す)があります。「山城屋」と屋号がついているのでおそらく古いだろうと想像がつくかもしれません。店名に「文政」とあるように江戸時代の文政期から営業をしている本屋です。
ここの店主は代々藤井左兵衛を名乗っています。かねてから京都で訪れたい本屋の1軒で、今回ようやく伺うことができました。他に京都で訪れたい本屋は、西本願寺近くにある永田文昌堂。こちらは現存する本屋の中では国内で最も古く、慶長の頃からやっている本屋とのことです。
藤井文政堂を訪れる前に永田文昌堂へ伺ったのですが、まだ仮店舗での営業であったため撤退。本をしっかり見ることができるようになったときに再訪します。
店について
店に入ろうとしたら明かりは灯っていたのですが扉に鍵がかかっていました。少し待ったところ、扉を開けていただき入店。店内はそこまで広いわけではなく、本は大量にあるわけではありません。棚には和本や易に関する本、仏教書(特に密教関連)がありました。今回は特に和本を物色し、良さそうな本を見つけたタイミングで会計へ。いつも通り会計のタイミングでお話を伺いました。
いつも通りの口上の後、資料(この時持っていったのは言論社版の井上和雄『慶長以来書賈集覧』)を出しながら軽く雑談からスタート。京都の建物についての話や店について教えていただきました。
まず店について。藤井文政堂、「明治期の番付で大関になった」と教えていただきました。この理由は店主曰く「廃仏毀釈での寺院からの資料放出」とのこと。典籍類が大量に出てくるタイミングがいくらか存在し、明治の廃仏毀釈、昭和の敗戦後が特に有名でしょう。後者は弘文荘が精力的に動いていた時期です。
店の看板は『日本外史』を書いた頼山陽のもの。どうやら親交があったようです。
また、この店に来る人は研究者が多いとも伺いました。専門書や和本が多く、資料を求める方向けな本屋であることは棚を見て感じていました。店主との間で盛り上がった話は永井一彰氏について。個人的に教えを請いたい研究者の一人です。
藤井文政堂がかつて所蔵していた板木がどこかのタイミングで流出し、それを見つけて奈良大学に収蔵したという話を伺いました。もう少し調べると、その板木は後にデジタルデータが立命館アート・リサーチセンターのARC板木ポータルデータベースで公開されています。このデータベースでは、藤井文政堂以外にも佐々木竹苞書楼で所蔵されていた板木も見ることができます。
話の途中で日本書誌学大系にある『藤井文政堂板木売買文書』と『板木の諸相』(いずれも永井一彰著、青裳堂書店発行)を見せていただきました。日本書誌学大系は全冊手元に置いておきたいのですが、全て買い集めるには軽く100万円以上かかり(200万円はかかるかもしれない)、収納スペースにも悩まされる資料です。それ以外にも、2023年の6~7月に奈良大学博物館で行われた企画展「板木と版本 藤井文政堂旧蔵の板木から」の冊子も見せていただきました。この冊子は持って行っていい、とのことでしたのでいただきました。
板木についてはこの他にも、明治期になって使われなくなったものは燃料として使っていたとも。出版に使うものが板木から活字に変わり、使われなくなったからでしょう。それだけでなく、桜の木なのでよく燃えたのでしょう。また、個人的に和本の刊記を見ていくことが楽しいということを話していたのですが、これについて共感いただきました。この視点は間違っていなさそうだ、と自信を持てそうです。
この書籍流通について、版本以外にも板木を見ていくことが大事だ、と言われ、店を出てから永井一彰『板木は語る』(笠間書院)を注文しました。後日、金子貴昭『近世出版の板木研究』(法藏館)も購入し、藤井文政堂の訪問が、板木に関しての勉強を本格的に始めるきっかけとなりました。
どこかのタイミングで板木を実際に触れることができればいいのですが、多分どこにも属さない人間には難しいので、まずは書籍で勉強してみることにします。
「書籍流通は奥が深い。三都や地方のネットワークなど、見るべきものが多い」と言われたことがかなり印象的でした。
その他、建物などについて、面白い話を伺いました。かつての建物について「蔵と便所があれば暮らしていける」と。これは火事になった際、母屋が焼けても蔵(暫定的に生活するところ兼食糧庫)と、用を足すところがあれば生きることは可能だということなのでしょう。これはおそらく藤井文政堂もかつて火災に遭ったのではないか、だからこその言葉なのではないかと個人的に考えています。
今回伺うにあたり、藤井文政堂についてほんの少しだけ調べていたのですが、圧倒的な知識不足を思い知らされました。歴戦のプロを相手にすると、付け焼き刃では到底歯が立ちません。近世出版史を多少齧っているとはいえ、勉強するべきところはまだまだ多いと実感しました。
資料から見る藤井文政堂
正直なところ、藤井文政堂は自分が書く必要も無いくらいの本屋です。掲載許可をいただいても藤井文政堂について書くことを躊躇っていた時期がありました。そんなことを書く必要はないので、仕切り直して資料から藤井文政堂を色々と見ていきましょう。
店頭で紹介いただいた永井一彰『藤井文政堂板木売買文書』や『板木の諸相』(いずれも青裳堂書店)を使いたいのですが、手元にない(『藤井文政堂板木売買文書』は「はじめに」のみ複写を持っているので後ほど使用予定)ので別の本を見ていきます。
まず紹介するのはおなじみ井上和雄『慶長以来書賈集覧』。高尾書店版を使って行きます。ここでは「山城屋佐兵衛」で立項されています。この「山城屋佐兵衛」という名前、江戸にも同名の書籍商がいます。江戸の方は稲田氏、堂号は玉山堂に存在したようです。今回は京都の藤井氏が対象なので、文政堂の「山城屋佐兵衛」を見ていきます。
井上によれば、藤井文政堂は
「京都蛸薬師通東洞院東入 後寺町通四條下ル 次に三條通麩屋町角に移り それより復た寺町通四條下ル町に轉じき 現在の家は佛書屋にして寺町通五條上ル西側なり」
とのこと。今の位置は寺町通五条上るとなっています。現在地までに数度の移転を行っていることがわかります。この移動について、永井は
『藤井文政堂板木売買文書』で「初代は蛸薬師通高倉西入ルに店を構えていたが、二代目に三条通麩屋町角に移り、その後寺町通四条下ルを経て現在地に移ったのは嘉永ごろ」
と六代目藤井佐兵衛こと藤井聲舟氏より伺っています。現在の地図で確認すると、東洞院通と高倉通は隣り合っているので、井上・永井の記述はおおよそ一致している、と考えられます。
また、井上によれば藤井文政堂は文政年間の創業となっているのですが、永井は六代目当主からの話で「本屋を創業した初代は文化九年卒」とあり、創業自体はもう少しだけ遡れるのかもしれません。これ以上は根拠となるものを調べていないので、ここまでにしておきます。なお、「文政堂」を名乗ったのは二代目の頃と、永井は記載しています。
さて、店主から「明治期の番付で大関になった」ということを伺いました。次にこれを見ていくことにします。現在、明確に「大関」の番付は見つかってないのですが、確かに番付には載っていました。この番付、藤井文政堂を訪れる前に何度か見ていました。この時点ではついぞ思い出せず、とあるVTuberの積読消化配信(各人が本を持ち寄ったり作業したりする配信のこと)で自分が読んだ四元弥寿著、飯倉洋一/柏木隆雄/山本和明/山本はるみ/四元大計視編『なにわ古書肆 鹿田松雲堂 五代のあゆみ』(和泉書院)に載っていました。そこには「関脇 京都 山佐」の文字列が。「山佐」は山城屋佐兵衛の略称であり、京都の山佐はつまり藤井文政堂のことです。
この番付の大関は東京の文求堂(田中文求堂)、本郷の琳琅閣、大阪の鹿田松雲堂でした。また、藤井文政堂以外に関脇と書かれていたのは「京都 若茂」。『慶長以来書賈集覧』を調べると「若山屋茂助」が該当しました。
これを基に『全国書籍商総覧』(新聞之新聞社)を確認すると、「若林春和堂 若林茂一郎」に
「二條富小路に獨立して若山屋茂助と稱し」
とあり、若茂は若林春和堂であることがわかります。寺町二条と丹波橋駅近くに若林書店があり、この2軒が若林春和堂ではないかと勝手に考えています。若林春和堂は若林正治の名を京都の出版資料関係でよく見ます。平澤一『書物航游』(中公文庫)にも若林正治の名前は出てきます。
この番付は荒木伊兵衛書店が出している『古本屋 5号』に「日本全國古本屋見立番附」として掲載されています。
ここには「明治四十一年の日本全國古本屋見立番附」、「其中堂書賣書目廿七號附録」
と書かれており、これの元ネタが其中堂から出ている目録であることがわかります。なお、『其中堂書賣書目27号』は国会図書館デジタルコレクションにもないので、どこかのタイミングで現物を探して見てみたいものです。この其中堂は寺町にある店で、『本屋の周辺Ⅱ』やこの連載でも取り上げている、名古屋に本店があった仏書に強い本屋です。
その他、藤井文政堂については『全国書籍商総覧』(新聞之新聞社)をいつも通り確認したのですが、これといった内容ではなかったので、代わりに1930年に発行された『日本出版大観』(出版タイムス社)を確認すると、
「業務は一切親戚に當る西村君が其の衝に當たつてゐる。」
と書かれていました。この「西村君」が誰なのか、気になるところです。
「日本古書通信」を確認してみると、色々記載があったので、ここに書いておきます。まず、279号の酔書生「京の古本屋探訪記(下)」を見ると、七条堀川に
「山城屋支店がある。さきの藤井文政堂、又の名を山城屋、だからその店の分家ということらしい。」
と書かれていました。七条堀川なのでちょうど東西本願寺の間。そこに藤井文政堂の支店があったということを初めて知りました。それ以外には、654号に前田菊雄(キクオ書店創業者)が書いた「古本屋人脈記(10) 京都の巻」を見ると、藤井文政堂からは神宮丸太町駅から少し歩いたところにある今村書店、四条河原町の駅から寺町通りを南下したところの三密堂書店が独立していることが確認できます。
この他、441・442号では「歴史と伝統の町 京都の古書界」として、京阪書房、佐々木竹苞書楼、竹岡書店、外山書店、キクオ書店とともに座談会に出席しています。司会は八木書店の八木福次郎と、今見ると錚々たるメンバーです。京阪書房以外は京都古書研究会(春のみやこメッセ、夏の下鴨神社、秋の百万遍と大きな古本まつりを行っている)のメンバーで、機関誌「京古本や往来」についても語られています。
古書通信以外では池谷伊佐夫『三都古書店グラフィティ』(東京書籍)でも紹介されています。宗政五十緒『近世京都出版文化の研究』(同朋舎)に
「幕末京都の書林と出版 ―弘化・嘉永期―」にも記載があります。しかしながら宗政について、永井は『藤井文政堂板木売買文書』で「文政堂関係の史料調査をも意図されたことがあったらしいが、結局触れられることはないまま故人となった」
とあり、店で店主からあまり宗政の話を聞かなかったのはここにあったのかもしれない、と少しだけ思いました。
藤井文政堂の板木
さて、江戸時代から本屋を営んでいる藤井文政堂。かつては板木を所有していました。この板木についての話が非常に興味深いので、ここに書いておきます。店主から聞いた藤井文政堂の板木が流出し、それが奈良大に入るまでの話。それ以外の話もですが、これらの話は永井一彰『板木は語る』に書かれています。
永井が藤井文政堂の板木を見つけたのは、大書堂という本屋の倉庫。この大書堂は現在も寺町で営業しています。そこに藤井文政堂の板木が保管されていたようです。この板木、どうやら大書堂に入る前には大書堂から書棚の注文を受けた木工店にあったようです。永井によれば、「これまた灰聞によれば、木工点は市の処分場に持ち込み、焼却も考えていた」と。本当に危ういところでこの板木は救われたようです。木工店経由で大書堂へ入った板木は、戦後藤井文政堂から流出したもののようです。
この板木の中に松尾芭蕉『おくのほそ道』の板木があり、これにより寛政版の板木がどのように移動したのか一部明らかになったようです。藤井文政堂がかつて『おくの細道』の板木を持っていたということは、刊記に藤井文政堂、もしくは山城屋佐兵衛の名前があるはずです。しかしこの板木には名前が載っておらず、井筒屋庄兵衞、橘屋治兵衞、浦井徳右衞門の名前が載っているだけです。
おそらく版本だけを見ていると、この3箇所の相合板であるように読み取れます。しかし、永井によれば万延元(1860)年の「文政堂蔵版目録」に『おくのほそ道』の板木を4枚所有していることが書かれており、つまるところ幕末頃には寛政版『おくのほそ道』の版権を持っていたことになります。
さらに、永井によれば藤井文政堂が相合板の中で中心的な役割だったようです。この刊記の部分、どうやら留板ということで、相合板の時に勝手に出版されないような役割を持っています。
ただ気になるのは、なぜ寛政版の刊記に藤井文政堂の名が彫られてないのかです。留板を持っており、出版の中心にいたのならば彫られていてもおかしくはない、と勝手に考えてしまうのですが、こればかりは流石にもう、真相は闇の中、なのかもしれません。版本の場合は「初摺はどこか」とどんどん過去へ遡っていくのですが、板木の場合は版本と逆向きの調査を行う、というのは個人的に興味深い内容でした。
買った本
今回買った本は、『増補改正 暦日講釋』(外題を表記。内題は『増補暦略註』)。和本です。江戸時代に書かれたものです。お手頃な値段と、値段のわりにかなりいいコンディションだったため購入しました。今回手に入れたものは、1848(嘉永元)年に再刻されたもので、初摺は1829(寛政12)年とのこと。初摺と所持しているものの間で更に2回再刻されており、今風に言えば4刷目に該当します。
暦関係は来歴調査が非常に難しい本です。今回買った本の刊記を見ると、「鶴屋喜右衛門」と「山崎屋清七」の名前が確認できました。前者は井上和雄『慶長以来書賈集覧』を確認すると京都と江戸に同名の書籍商がいます。後者については上里春生『江戸書籍商史』(名著刊行会)に記載を確認。これを見ると嘉永6年の書物問屋「古組」に「浅草福井町一丁目五郎兵衛地借 山靜堂 山崎屋淸七」とありました。後に山崎淸七となり、日本橋小伝馬町に移動していることがわかりました。
後者が江戸の本屋ということなので、前者も江戸の本屋だろうと検討をつけ、再度井上を参照する。そこには「當時江戸地本問屋として錦繪草双子類の大版元となり其の全盛を極めたることに比類無かりしとぞ江戸名所圖會巻一に其の店を寫したる圖あり」と書かれており、江戸における地本の大版元であることがわかります。江戸の鶴屋喜右衛門は堂号を仙鶴堂といい、滝沢馬琴の『義経千本桜』の版元としても名前が出てきます。