今回は本連載で初めての神保町です。これまでは都内の本屋、ましてや神田神保町なら「誰かが書いてくれるだろう」と思っていたのですが、そんな悠長なことを言ってる余裕もない気がすると思ったので、意を決して飛び込んでみました。
神保町で下車し、靖国通りの古本屋街を東へ進む。今回訪れた十字屋書店(以降「十字屋」と記す)は、神保町古本屋街にある本屋です。「古本屋ではありません」という紙が貼られているところから、よく古本屋と間違われるのでしょうが、ここは新刊書店です。本来なら店の外にも棚が出ているのですが、この日は雨だったので、棚はすべて中にありました。
店に入ると、一部棚が空いている印象はあるものの、文庫や新書がぼちぼち。戦史系の書籍が多めな配置でした。少し物色し、本を見つけたので会計へ。以前ここに伺った際軽く話をしたこと(翌週に高知の本屋を巡ると言う話をしたはず。十字屋の次に捺してもらった御書印が高知の金高堂本店なので多分間違いない)を覚えてくださっており、非常に嬉しかったです。
前回(2020年10月頃)訪れた時、ちょうど御書印に興味があり、ここで特装版の御書印帳を購入、1ページ目に捺してもらいました。今でも集めてはいるのですが、古本屋や御書印非加盟店を巡ったりしているので未だ1冊目が終わりません。この時、ここの御書印について教えていただきました。「昔、宮沢賢治全集を出したので、賢治の言葉を入れている」と。当時は神保町に通っていたはずなのに古本屋ばかりに目が行ってしまい、毎度ここをスルーしていたことをやや後悔しています。そんな本屋が神保町にあったとは、と。
また、今回は「昔は九段の坂は急勾配で、オリンピックの整備のタイミングで低くした」というお話を伺いました。こちらについては「千代田区の文化財」で確認すると、
「急な坂道の様子や坂上の燈籠、偕行社などは雑誌の挿絵、錦絵や絵葉書などにも多く取り上げられ、東京名所の一つとして親しまれました。(中略) 関東大震災後、帝都復興計画で坂を大幅に削り勾配を緩やかにする工事が行われました。」
とあり、確かに急勾配だったことは間違いないようですが、整備のタイミングが関東大震災以後の帝都復興のタイミングでした。店については「今でも来る方は、昔から通っていた人や、『親が昔通っていた』方が多い」とのことでした。御書印を見ると創業が1939(昭和14)年となっており、確かに昔から通っていた方は今でも来るのかもしれません。
2つの『宮沢賢治全集』
さて、今回は十字屋版の『宮沢賢治全集』について気になったのでこちらを少しばかり調べつつ、この本屋の話をしていきたいと思います。
御書印関係で十字屋を取り上げたブログ記事やSNSでの投稿などを見ると、十字屋が日本で初めて『宮沢賢治全集』を出したというような記述が見受けられます。国会図書館オンラインで「宮澤賢治全集」のワードを用いてタイトル検索し、「出版年:古い順」でソートをかけるとまず出てくるのは本郷の本屋文圃堂が出した版なので、「十字屋が日本で初めて『宮沢賢治全集』を出した」というのは明らかな誤りです。
しかしながら十字屋が『宮沢賢治全集』を出版したことは事実なので、なぜ出したのかなど、もう少し掘り下げてみましょう。この話は宮沢賢治に詳しい人なら知っているかもしれません。また、この話は東京の古書店史に詳しい方もご存知かもしれませんが、ご容赦ください。
いくつかの資料を読んでいくと、色々と面白い事実がわかってきました。十字屋版の『宮沢賢治全集』を出すきっかけとして、文圃堂版が関わってきている点。十字屋とは関係ないですが、書物展望社から出る話があった点などなど。
まず、文圃堂版が関わっていた点について。こちらは文圃堂店主であった野々上慶一の著書『文圃堂こぼれ話―中原中也のことども』(小沢書店)、戦前に直木賞を受賞した作家森荘已池『ふれあいの人々 宮沢賢治』(熊谷印刷出版部)、詩人の草野心平が編者である『宮沢賢治研究』(筑摩書房)(同名、同編者の書籍が1934(昭和9)年に十字屋から発刊されているが、そちらには記述がない。しかしながら高村光太郎や中原中也の寄稿があり、こちらも興味深い)にある草野心平「宮澤賢治全集由來」で確認ができます。
野々上曰く、
「同じ本屋の若い連中と共に女遊びなどをおぼえ、お定まりの金詰りとなった。そこで思いあぐねてのことであろうが(中略)店で使用した本の紙型を二つ三つ持ち出して、金の工面に当てはじめた。そしてそのなかに、『宮沢賢治全集』(三冊)の紙型があったのである。金を都合して貰った先は、神田神保町の十字屋だった。」
と、文圃堂から十字屋へ『宮沢賢治全集』の紙型が移動している旨が書かれていました。
この紙型の移動について、森は
「三巻本の宮沢賢治集を刊行した文圃堂主人が店をとじなければならないことになった。(中略)文圃堂刊行の「宮沢賢治全集」の紙型は、破産世話役の十字屋さんに寄贈され」
とありました。
そして草野は、
「昭和十四年になつて、(中略)書物展望社にゐた石塚友二君の紹介で神田の十字屋書店にひきあはされた。當時の十字屋は山の本を中心にした古本屋であつたが傍ら出版もやらうと考へてゐたらしい。そして十字屋主人は古本の市で「宮沢賢治全集」に注意し出した。といふのは古本の市に出る賢治全集が月每に値上りしてゐることに注目したのである。その結果、當時はもう店舗を閉めるやうになつてゐた文圃堂から全三巻の紙型を買い取つた」
と書いていました。三者三様、経緯は異なるものの、大体は、文圃堂が店を閉めるので十字屋が紙型を手に入れた、ということになるでしょう。
十字屋版『宮沢賢治全集』は草野によると
「文圃堂より譲り受けた全三巻の紙型をそのまま印刷しての再刊を企圖してゐたのだが、初めての出版なのでなんとなく手間どつてる間に、賢治の聲明は急速にひろまつていつたことから、紙型はそのままにして新たに全七巻の全集を出版することになつた。」
とあり、当初はそのまま出版する計画だったようです。
十字屋が『宮沢賢治全集』を出す際、当時の十字屋店主であった酒井嘉七(以降「嘉七」と記す)が花巻の宮沢家を訪ねた時の話を、森が
「清六さんから賢治の話を聞き、遺稿を見せられて、びっくりしてしまった。「大変なものに、でっくわした」という感慨であったという。彼は全三巻というのが、全くの「選集」にすぎないことを知った」
と書き残しています。文圃堂版全3巻は全集というよりも選集であるということについて、草野が
「私が作品の量を話すと、とても全部は駄目だから三巻位の選集にして全集として出さうといふことに話はおちた。」
とあり、あまりにも作品が多すぎるので一部を全集として出すことが決まったようです。選集的な全集の出版について、文圃堂版の編集・装幀に携わった高村光太郎も
「(前略)三巻でもいいから、選集的全集でもいいから、兎も角出してもらつた方がいいぢゃないか」(森より引用)
と同意し、文圃堂版は全3巻での出版が決定したようです。
一方、十字屋版は宮沢賢治の知名度が急速に上昇したので、全7巻での全集出版となったようです。草野は「昭和十五年一月その第一回配本が出市した」とあるのですが、最初に配本された『宮沢賢治全集 第3巻』の奥付を確認すると、発行年は1939(昭和14)年でした。
余談ですが、1944年に発刊した『宮沢賢治全集 別巻』の奥付には配給元が載っており、そこにはしっかりと日配(日本出版配給株式会社)の文字が確認できました。文圃堂版と十字屋版を広告で比べると、装幀はそれぞれ高村光太郎が、編集者が双方共通で高村、宮澤清六、藤原嘉藤治、草野心平、横光利一が、十字屋版では谷川徹三、森荘已池(「森惣一」)、中島健蔵が加わっていることがわかりました。
次に、本来『宮沢賢治全集』は書物展望社から出る話があったことについて。
こちらは草野が「宮澤賢治全集由來」に書き残していたので使いつつ、ここに書いておきます。どうやら草野の元に書物展望社の岡村政司という人物が訪れ、そこで書物展望社から『宮沢賢治全集』を出したいという話が出たとのことです。岡村が草野のところを訪れるきっかけについて、草野は
「横光さんはその岡村氏に、(多分編輯長だったのだらう)極力賢治の全集を出すことを勸めたさうで(中略)そして高村さんを訪問したら、高村さんは草野君にきいていいといつたらいいだらうとのことだつたので訪問した。そのやうな順序の話を前提にして「宮沢賢治全集」を書物展望社から出したいから、斡旋してくれまいかといふことだった。」
と書き残しています。ちなみにどうやら高村と横光はついぞ会うことはなかったようです。
その後、書物展望社の石塚友二という方が全集の担当となり、草野は原稿を書物展望社へ渡しました。週に1度書物展望社を訪れたが原稿が積まれたまま。内容見本はできたのに刊行できない状態になっていたようです。どうやら担当していた石塚には決定権がなかったようで、「もう少し待つて」と言うだけで時間だけが過ぎていく。その最中に文圃堂が発行していた「文學界」の編集である武田麟太郎という人物と文圃堂店主の野々上と会い、文圃堂版の刊行にこぎつけたようです。
書物展望社での出版が難しいことは草野も感じていたようで、これについては
「全くの無名者といつていいものの全集、それも八、九巻にもなるだらう分量を、いきなり出すといふことは、場合によつては書店の命取りにもなりかねないだらうから。」
と書き残しています。
かつての十字屋書店について(主に酒井嘉七について)
手元にある本で初めて十字屋の名前を見たのは、神保町の古本屋一誠堂書店の創業100年記念誌『古書肆100年』の「酒井家・家系図」です。一誠堂書店創業者である初代酒井宇吉の弟に助治、嘉七の2人が見えます。酒井助治(以降「助治」と記す)には「十字屋書店を神保町に興す」、嘉七には「助治の没後、十字屋書店を継ぐ」とあり、なるほど十字屋は神保町の有名店一誠堂書店の親族による創業だということがわかります。
ちなみに初代宇吉の兄弟はほとんど出版業界に携わっており、助治、嘉七の2人以外には長兄嘉四郎が郷里の越後長岡で酒井書店(現存せず)を営み、福次が芳文堂(酒井芳文堂)を興しています。さらに、初代宇吉の次男正敏は、鉄道趣味者などにおなじみの書泉を創業しています。
余談ですが、出版社に関する人は長野県出身(岩波茂雄(岩波書店)、古田晁(筑摩書房)、小尾俊人(みすず書房)などが代表的か)が多いイメージ(長野県出身の出版人については塩澤実信『出版王国の戦士たち 信州出版人 この一冊』(彩流社)が詳しい)ですが、神保町界隈だと越後長岡出身者の影響力が大きかったのかもしれません。博文館創業の大橋佐平、東京堂2代目の大橋省吾(創業者高橋新一郎は湯沢出身)一誠堂の酒井宇吉(初代)をはじめとする酒井家、そして弘文荘の反町茂雄が長岡出身者として挙がるでしょう。初代宇吉は東京堂、福次は博文館で働いていたということは、やはり同郷のよしみだったからなのでしょうか。
十字屋創業の酒井助治については記述を見つけることが現時点でできませんでしたが、2代目の嘉七については非常に多くの記述が確認できました。「確認できました」というよりも、堀切で古本屋青木書店を創業した青木正美の『古書と生きた人生曼荼羅図』(日本古書通信社、底本はちくま文庫にもなった『古本屋群雄伝』と『古本屋畸人伝』)にだいたいまとめられていました。
青木が記した「十字屋書店・酒井嘉七 時代を画した「書物春秋」」の後半部は同時代に活動していた探偵小説家酒井嘉七(同姓同名!)を十字屋の酒井嘉七と間違えてしまった話が載っています。この話について「ああ、こういうこともあるよねぇ」と共感しました。非常に面白いものなので、古書店史云々ということを抜きにしても読んでいただければと推したいところです。
せっかく先人がまとめていたものが手元にあるのでこれを使わない手はない。巨人の背に徹底的に乗っかる、というスタンスでまとめて行きます。
青木が書いた酒井嘉七(以降「嘉七」と記す)の項にとある本の引用がありました。『一古書肆の思い出』。未完で終わった弘文荘反町茂雄の自伝です。現在は平凡社ライブラリーになっており、単行本(平凡社版)ライブラリー版ともに全5巻となっています。せっかくなのでこちらも見ていきましょう。
青木によれば、嘉七は「反町を古書業界に送り込んだ人物」ということです。それだけではないですが、まず書くとしたらここでしょう。反町の馴染みの古本屋に十字屋があり、嘉七について『一古書肆の思い出 1 修行時代』では
「(前略)この人は新潟県長岡市出身。同郷で同年輩。(中略)正直な、いたって親切な人でした」
と評しています。
反町は「出版屋さんになったあ、一生読む本には不自由しないだろう」(『一古書肆の思い出 1 修行時代』より)という夢が湧いたのか、卒業前の秋に岩波茂雄や誠文堂新光社の小川菊松などの出版関係者を回った後、嘉七の提案で古書業界へ入ることを決意。この提案を反町は、
「古本屋へはいると、出版の動向の一端がわかると同時に、永い生命を持つ本と、すぐ読み捨てられる書物との差別がハッキリ判って、大いに参考になるだろうとの事。」(ここの「差別」は原文に入っているので、原文ママで記載している)
と書き残しています。嘉七はこの後実兄である初代宇吉を口説き落とし、反町の一誠堂書店の入店が叶うことになったようです。
どうやら反町は短期間で済むだろうと思っていたようですが、宇吉から嘉七に向かって「少なくとも三年勤めてもらなければ」(『一古書肆の思い出 1 修行時代』より)と釘を刺す。反町はしぶしぶ納得したようで、これで一誠堂書店への入店が決まったようです。
この一連の動きがなかったら、弘文荘はなかったのではないか、と個人的に言ってしまいたいくらい、反町の今後を決定づけた人物だったのは間違いないでしょう。この反町の入店について、反町茂雄編『紙魚の昔がたり 昭和篇』(八木書店)の「永井荷風を中心に 山田書店 山田朝一」で、神保町の古書店山田書店創業者である山田朝一が
「昭和二年の春、反町さんが入店されました。一誠堂の主人の弟さんで、十字屋酒井嘉七という人の世話ではいられた。それより先き、東陽堂さんでも、一旦引き受けたんだ相ですが、いろんな関係で、どうも使い切れないという事で、結局一誠堂に落ち着いたんだとかいう話です」
と残しており、この、ややたらい回しな感じがあるいきさつについて気になってしまいます。
その後、嘉七は書物春秋会という同人を立ち上げ、『書物春秋』という逐次刊行物を出しています。書物春秋会のメンバーは稲垣近義(稲垣書店)、鹿島元吉(光明堂)、高林末吉(東陽堂)、大雲英二(大雲堂)、東條英司(東條書店)、原廣(原廣書店)、酒井嘉七(十字屋)、吉田直吉(浅倉屋、後の11代目吉田久兵衛)、松村龍一(松村書店)、三橋猛雄(明治堂)。反町曰く「神田の新進のパリパリぞろい」。この書物春秋会が出した『書物春秋』の創刊号を、反町は嘉七よりもらったとのこと。これを読んだ反町は
「若い旦那方の御奮発に心を動かされました(中略)自分たちもこういう物を出したい、出せば出せる、という希望の様なものが湧きました」
と述懐しています。
『書物春秋』に触発されたのかこの後一誠堂書店内では反町を中心として玉屑会という勉強会が設立、機関誌である『玉屑』を発行したようです(全6冊)。寄稿者は八木敏夫(八木書店)、小宮山慶一(小宮山書店)、横川精一(2021年に閉店した本郷大学堂書店)、山田朝一(山田書店)など、それぞれ独立し店を持つ方々の名前が見えています。この『玉屑』は国会図書館デジタルコレクションで、創刊号以外の5冊が個人送信対象となっているので、利用者登録さえしていれば閲覧が可能です。個人的には全冊現物をこの目で見てみたいものですが、創刊号だけ国会図書館に無いようで。古本屋を巡っていればもしかすると出会えるかもしれません。
その他の資料では、
「父は、(中略)東陽堂さんとか、悠久堂さんとか、近くの兄弟の芳文堂さん、十字屋さんへ遊びに行っている。」(「終戦直後の混乱に棹さして 一誠堂書店 酒井宇吉」(2代目宇吉)(反町茂雄編『紙魚の昔がたり 昭和篇』(八木書店)))
と、兄弟仲の良さが書かれたりしていました。
十字屋の店自体については森荘已池が「小さな標準の型の古書店」「狭い常居の他には同じく狭い台所と一穴の便所があるだけ」(どちらも『ふれあいの人々 宮沢賢治』(熊谷印刷出版部)より)と書いており、狭い空間であったようです。どうやら十字屋のあるところは「11軒長屋」と呼ばれる建物だったようです(「東京の変わらない景色⑫-1 神保町11軒長屋の大久保書店」参照)。
嘉七は1944年に亡くなり(「酒井家・家系図」(『古書肆100年』(一誠堂書店))と「物故組合員名簿」(『東京古書組合五十年史』(東京都古書籍商業協同組合))より確認)その後は酒井はな(十字屋出版物の奥付より)、酒井古志男(『全国書店名簿 1960』(日本書店組合連合会))という方が営んでいたことが確認できています。
銀座蔦屋書店でやっていた御書印フェア(https://honcierge.jp/articles/shelf_story/11349#anchor-1646799999224 参照)で、十字屋は『新編 宮沢賢治詩集』(新潮文庫)を推薦していました。そのキャッチコピーに「当店の前身は十字屋書店という出版社でその昔、宮沢賢治全集を刊行しました。その後、書店として営業を続けています。」とありました。
たしかに戦前、十字屋は出版事業を行っていたことは間違いない(『宮沢賢治全集』以外にも詩集などの出版を国会図書館デジタルコレクションにて確認)のですが、草野が
「當時の十字屋は山の本を中心にした古本屋であつたが傍ら出版もやらうと考へてゐたらしい。」(「宮澤賢治全集由來」(『宮沢賢治研究』(筑摩書房)))
と、森が「小さな標準の型の古書店」(『ふれあいの人々 宮沢賢治』(熊谷印刷出版部))と書いているように、出版が先というよりも、古書店が先でその後に出版、そして新刊書店へ切り替わったと考えられます。
また、御書印にある創業年の1939年は、何を根拠にしているのか、気になります。十字屋版『宮沢賢治全集』の配本開始が1939(昭和14)年なので、そこから取ったのかもしれません。嘉七の兄、助治が創業しているので、助治の没年である1919(大正8)年よりも前の年代が創業年となっていてもいいはずなのですが。
助治の十字屋を遡ってみると、『官報 1916年12月21日』に「東京市神田区商號(新設)」で「十字屋書店」の商号が助治を使用者として登録されていました。ここが調べた中で一番古く、1916(大正5)年には十字屋が存在したであろうことがわかりました。
また、『官報 1917年01月25日』を確認してみると、「十字屋書店」の商号について、本郷区での新設が記載されていました。戦後、官報では十字屋の名前は『官報 1947年02月12日』に確認できます。ここでの掲載内容は昭和21年勅令第311号に基づく没収対象出版物の追加指定に関するものでした。ここで指定された十字屋の出版物は国会図書館デジタルコレクションに入っていることを確認しています。
十字屋は日本学校劇連盟 編『月間 学校劇』(十字屋書店、国会図書館にある第1巻第2号のみ清水書房の発行)と逐次刊行物や「学校劇文庫」というシリーズものを刊行しており、なぜ学校劇関連の出版を行っていたか、気になるところです。
買った本
今回買った本は、勝又基『親孝行の日本史 道徳と政治の1400年』(中公新書)の1冊。名前が気になったこと、新書なので出先で手軽に読めるだろうとの理由で購入しました。
道徳観がどのように形成され、社会でどう受け入れられてきたのか、という流れを見てみたいのですが未だに積読。そのうち読みたいですが、果たしていつ読む時が来るでしょう。