山形駅から徒歩20分ほどにある七日町を西側に進む。レトロな建物が多いエリアに今回訪れた郁文堂書店があります。この本屋、山形に訪れなければ知ることがなかったであろうと思う本屋でした。
店内はそこまで本があるわけではないですが、手前は文庫本など、奥は郷土資料。奥の郷土資料は『山形市史』編纂に使用した資料集がずらっと置いてありました。また、『山形文学』という書籍も置いてありました。
入りながら店の方と話をすると、もともと郁文堂書店は1933(昭和8)年創業の本屋とのこと。創業者が本郷の古本屋で修行した後、山形で創業。移転を経て現在の地に。当初は古本の販売をやっていたが戦後に新刊も販売をしていたとのこと。
かつては定時制の高校に通っていた方が郁文堂書店に勤めていたようです。朝の配達のために住み込みで働いていたなど、お話を伺う事ができました。ここの住み込みは、古本屋での住み込みとちょっとベクトルが違うように感じられました。また、戦後すぐの本がない時期は郁文堂書店の店主が八文字屋など山形の書店を連れて上京、古書を仕入れていた、という話も伺いました。
当時来ていた客には斎藤茂吉や司馬遼太郎、井上ひさしなどがいたようです。店舗の奥には「郁文堂サロン」と言われる場所があり、文化の拠点となっていた本屋だったようです。その後2000年代後半にはシャッターが閉まり続けていた郁文堂書店。2017年に東北芸術工科大学の学生たちによるリノベーションで再度オープンし、今に至ります。
このリノベーションは資金をCAMPFIREのクラウドファンディングで募っていたようで、リターンには店舗右側の棚に本を置くことができる権利があったみたいです。
店に置いてあったナカムラクニオ氏の本、何気なく話題に入れてみると、氏もここに関わっていたようです。関わっていた、というよりもナカムラ氏が声をかけたからこそクラウドファンディングが始まった、と思っています。このナカムラクニオ氏の一連の話は、「real local 山形」にて「「本の街」は作れるか? 郁文堂再生プロジェクト日記」として連載がされています。その他リニューアルについての話はいくつかのメディアでも取り上げられており、ネット上で検索すればいくらか出てきます。
店の話をしてきたので、ここからは少しばかり資料を見ていこうと思います。調べた範囲で郁文堂の名前が資料に出始めたのは、『古本年鑑 第3年版』(古典社)の「全國古本商名簿」でした。この資料は1935年の出版のため、おおむね1935年頃にはあったのは間違いありません。しかしながらこの前年版の『古本年鑑 第2年版』には記載がありませんでした(山形市内では、高橋書店、田中書店、谷野書店のみ)。
『古本年鑑』で確認できた郁文堂の住所は「山形市七日町」。また、他に戦前の資料で確認できるものは、1936年に創刊された『山形県図書館協会報』(山形県図書館協会)でした。郁文堂はこの創刊号に広告を出していました。そこではもう少し具体的に「山形市七日町大通」と所在の記載がありました。
戦前の地図を確認してはいないのですが、おそらくこの大通りは大沼があった通りでしょう。この所在についてはナカムラクニオ氏が「「本の街」は作れるか? 郁文堂再生プロジェクト日記①」で書いていた「最初は、現在の場所から3分ほど離れた七日町ワシントンホテル近辺にあり」という内容と一致するものです。また、古本を扱っていたことについては、『古本年鑑』の記載、並びに『山形県図書館協会報』の広告に「和洋古書籍」「古本高價買入」と記されていることからも確認できます。
ナカムラ氏の連載には、開店時の郁文堂の写真が掲載されており、こちらも非常に貴重な資料です。資料上からはいつ店舗が現在の場所へ移動したか確認できませんでしたが、国会図書館に収蔵されている郁文堂出版物である後藤嘉一『やまがた史上の人物』の奥付を確認すると、現在の店舗所在地と一致していました。この書籍が発行されたのが1965年のため、それ以降は間違いなく現在の場所で営業しています。
創業者原田吉男の名前で国会図書館デジタルコレクションを検索すると、『山形県文化史』(山形県文化普及会)という資料が確認できます。この資料は3巻揃となっており、1・2巻が1948年、3巻が1949年に刊行されています。各巻の奥付を確認すると、郁文堂の名前の記載があり、そこに書かれている住所は「山形市七日町168」。やはり当時の住宅地図を確認しなければならなそうですが、一旦場所についてはここで保留にしたいと思います。その他、原田吉男の名前で確認できる資料は『山形県名鑑』がありました。
さて、郁文堂書店の名前について、原田伸子「山形の本屋の今昔 ―郁文堂書店の話(1)」(『始更 19号』所収)には、「本郷で奉公時代に目にした「郁文堂」という名前の文字や響きが好ましく、店主にお願いに上がって、名前を使用するお許しをいただきました。それが、本郷の東京大学そばの古書店「郁文堂」でした。ここは、小売りの店舗であって、ドイツ語出版などの郁文堂とは異なる店です。」と書かれています。
この「郁文堂」について、少し掘り下げてみようと思います。「郁文堂書店 本郷」と入れただけではドイツ語版元の郁文堂しか出ないため、工夫が必要だと思いながら彷徨っていたら、「ニイミ書房/本郷6丁目 」(「ぼくの近代建築コレクション」)というブログ記事を発見。見てみると、「本郷通りの東大正門前交差点。写真左から、万定果物店、郁文堂書店、ニイミ書房。古書店の並ぶ通りだが、この2軒は新刊の書店のようだ。」と記述がありました。
なるほどこのサイトの記述を信頼すると、古書店ではないものの、東大のそばに郁文堂書店という名前の書店があることは確認できました。ただこれだけではまだよくわからないのと、本当に「ドイツ語出版などの郁文堂とは異なる店」なのかわからないため、もう少しこの東大そばにあった郁文堂書店について調査をしてみます。
まず、書店として、本郷にあった郁文堂を調べるべく、都立中央図書館にて東京都書店商業組合の『四十年史・別冊』を確認してみることに。そこの「文京支部」に、たしかに郁文堂書店という本屋が本郷にあることを確認しました。また、地図を確認すると場所は東大の正門前でした。ここから確認できたのは、大井正久、大井久五郎という人物の名前でした。大井久五郎はドイツ語版元である郁文堂の創業者であるとこの時点で判断していましたが、もう少し、東京都書店商業組合の発刊物を確認してみます。
続いて、『四十年史・別冊』の10年後に出た『東京組合五十年史』(東京都書店商業組合)には、同店についてもう少し詳細が書かれていました。以降、引用しておきます。
「明治三十八年頃、帝国大学構内に(電車通り向う側に)古書洋書販売店を開業。明治四十二年六月帝国大学拡張のため立ち退きを命ぜられた。本郷区森川町一番地表通り(現在は文京区本郷六丁目十七番十号)東大正門前に店舗を移転した。」
ここからわかることは、この郁文堂書店はもともと帝大近くにあり、今のところには大学拡張が理由で移転してきたということ。
『東京組合五十年史』などを確認したところ、大井久五郎の名前が出てきていました。念のため『人事興信録 第8版』(人事興信所)「大井久五郎」の項目を確認することにしました。さらに念を押して、大井久五郎の経歴を確認したところ、「郁文堂と稱し書籍商を營む」とありました。また、家族について、「家族は三男正久(大二 七生)四男敏夫(同五 七生)あり」と書かれていました。
おそらく本郷の郁文堂書店はドイツ語版元の郁文堂の小売部門だったのではないかと、この段階で推測しました。ただこれだけでは正直根拠が不十分なので、ドイツ語版元の郁文堂が発行した社史『株式会社郁文堂 創業八十年記念誌』(以降『郁文堂社史』と記す)を確認してみることにしました。
『郁文堂社史』の「郁文堂とともに」に、このような記述がありました。
「東京帝国大学拡張のため、店舗の取払い立退きを命ぜられた。明治四十二年六月、本郷区森川町一番地表通り二十九号(森川町八〇番地の一、現在は文京区本郷六丁目十七-一〇)の店舗を原田氏より譲り受け移転した。東京帝大正門の真ん前である。」
この記述は『東京組合五十年史』の郁文堂書店の項目にほぼ同じものが載っており、「本郷の郁文堂書店」は大井久五郎が作った郁文堂であったことがわかりました。念のため、大井正久について確認してみると、1946(昭和21)年に、大井敏夫とともに合資会社郁文堂書店の代表社員となっていることがわかりました。
調べてみた結果、原田の「ドイツ語出版などの郁文堂とは異なる店です。」という記述は全部が全部合っているわけではないと思わざるをえない、と思いました。もしかすると、お願いに上がった「店主」は、大井久五郎、もしくは大井正久だったかもしれませんが、ここまでの人物特定にはまだまだ資料が必要であり、時間がかかると判断し、これまでに。もう少し郁文堂書店について資料を漁りたいところですが、それはいつになることやら。
ちなみに本郷にあった郁文堂書店、ゼンリンから出ている住宅地図を都立中央図書館で確認したところ、『 文京区 ( ゼンリン住宅地図 東京都 1992 5 )』には東大正門前に存在を確認できたのですが、1995年に発刊された『文京区 ( ゼンリン住宅地図 1995 5 )』には載っていませんでした。1992から1995年の間に閉店したものと思われます。
今回買った本は『始更 19号』の1冊。この本で、かつての郁文堂書店について知ることができると思ったため、購入しました。この本屋の始まりについて、きちんと残っています。今回の記事で活用してみました。ただし、『始更 19号』以外の資料も使わなければ他の話も出てこないので、あくまでも資料の1つとして。