【書評】Because I am a Girl――わたしは女の子だから

20151216 わたしは女の子だから

最近、英治出版さんにはいわゆるソーシャルデザイン的な本が多いことを教えられた。紀伊國屋書店新宿南店にある「ソーシャルデザインの本棚」を取材したのだ。

ちなみに、ソーシャルデザインという言葉は、社会起業やNPO、プロボノといった言葉を包括した概念で、「社会的課題を解決するための行為」を指す。

一見、豊かで何不自由ない生活を送っているように見える現在の社会。そこにおける課題とは何だろう? とはじめは思った。だが、それがいかに軽くて薄っぺらい認識なのかということはちょっと調べただけでわかる。

日本に限定しても貧困や差別、自殺、教育、年金などなど数限りない課題が数え上げられるのだ。その上、日本はこれでも先進国である。開発途上国における社会的課題がどの程度のものなのか。ぬるま湯に浸かりきった日本生まれ日本育ちのぼくには想像もできない。想像したとしてもリアリティがない。

本書は、「途上国の子どもたちとともに地域開発を進める」をモットーとするNGO団体プランによって企画された本である。
プランによる「Because I am a Girl」キャンペーンの一環で生まれたこの本。女性差別が根強く残る開発途上国にプランの依頼によって行った世界各国の作家たちによるアンソロジーである(訳者である角田光代もその一人)。

先にぼくは社会的課題に対してリアリティを持てないと書いた。本書の内容とぼくの間には「リアリティ」という点に関して2つの断絶があると考える。
それは「国」と「性別」だ。
生まれた国も違えば育った環境違う(国が同じでもこれはそうだけど)。さらには、男性のぼくにはどうしても分からない身体的・文化的な女性との差。

本書はコミュニケーションの本だと思う。生まれも育ちも違う人間とや文化との意思疎通について。作家と現地の人間とのコミュニケーションでもあり、作家とプランとのコミュニケーションでもあり、そして、西洋文化と開発途上国の文化とのコミュニケーションの話だ。

弱者とのコミュニケーションとも捉えられるだろう。

しかし、こういう開発途上国であったり障害者であったり現状の社会として考えたときに自分より弱者のこと(ぼくが弱者と思っているわけではない)を描いた本を読むときには、必ず感情移入をしないように気をつけている。注意しなければ違う人間だということを忘れて「かわいそう」と分かった気になってしまうからだ。

本書は、その点、良くできている。

様々な作家がそれぞれ違った立場から現地の様子やそこでも生活、奮闘を描いているが、これらが同列に語られていることで、現地の人間がそれぞれ違うことは当たり前だが、そこを訪ねる人間もひとりひとり違うということを常に認識させられるからだ。

ただそれでも、本書を読んでいると貧困や差別の理不尽さを憎まずにはいられなくなる。「性器切除が当たり前だなんて信じられない。すぐにやめるべきだ」
そう思わせられる。
だが、それは性器切除が当たり前ではない日本に生まれた僕だからこそ思うわけで、それが当たり前の人々からすればなぜやめる必要があるのか分からないだろう。話しても立脚点や前提となる常識が違えば議論は平行線となる。

異文化コミュニケーションの難しさはきっとそういうところにあるのだと思うが、さらにその異文化を変える、となると難易度は飛躍的に上がる。何も知らない他人に「変えろ」と言われて変える人間はいないのだ。

プランはそういうことをずっと行っているわけだ。頭が下がる。

さらに言えば、プランの活動はある意味で「異文化に入り込んで自分たちの正義を振りかざして変えるよう強制している」という見方すらできる行為だ(ぼくはプランについて本書以上の情報を持っていないが彼らの活動は正しいと感じているが、そういう捉え方もできるということだ)。
それを続けて成果を上げるのにはどれだけのエネルギーが必要か。まったくもって世の中にはすごい人たちがいるものである。

プランの活動を紹介するのに作家による文章をプランが選んだという点は、きっと異文化理解ということを常に念頭に置いているからではないかと思った。

ぜひ読んで、他者について思いを巡らせてほしい。