2018年3月7日に開催したイベント「「みんなちがって、みんないい」? 多様性をテーマに語る日本のいま ~浅生鴨『伴走者』(講談社)・小野美由紀『メゾン刻の湯』(ポプラ社)出版記念 トークイベント~」。
残念ながら来られなかった方のための、イベントまとめ記事の第2回目です。
ここでは、浅生さん・小野さんお二人がどう多様性と向き合っているか、が語られています。
(本を読んでから、まとめを読んだほうが楽しめると思います。最高に面白い本です!)
- 本が好き!でのレビューもどうぞ
宙ぶらりんが我慢できない人はたぶん多様性に耐えられない
小野 『伴走者』を読ませていただいて、すっごく面白かったんですけど。
浅生 ありがとうございます。皆さん、聞きました? 今の。小野さん、もう一回言ってもらっていいですか。
客席 (笑)
小野 すっごく面白かったです!!
浅生 ありがとうございます!
小野 今日のトークで何話そうかすごい悩んでたんですけど、そんなこと、悩まなくていいやってぐらい面白かったです。
この中で私が感じてる多様性と、浅生さんが描いた多様性の中で、「この感覚はすごくリンクしてるな」って思う箇所がありました。
前編の競技のところの話でドキッとしたところがあって、淡島(夏・マラソン編の主人公。視覚障害のあるランナー・内田の伴走者)が「目が見えることが悪いことのように感じられる」って言うセリフがあるじゃないですか。そこがすごくグッと来たんですよ。
何でかっていうと、全く異質な人と関わるときって、深くかかわればかかわるほど、自分の持っている世界の見方とか基準みたいなものがゴソって移動しちゃう瞬間があると思うんですよね。それをこの箇所だけじゃなくて、本当にこの小説全部を通して多く味わさせていただいたなって。
浅生 僕、そのセリフを書いたときにどこかで感じていたのは被災地との付き合い方なんですよ。
僕は元々、神戸出身で阪神淡路大震災の後もずいぶん見てきたんですけど、東日本大震災のあともちょくちょく東北に遊びに行っているんです。そこで、すごくよく聞いたのが、家を流され、家族を失った人たちがたくさんいる中で、家族は全員無事で家も流されず仕事も失わなかった人たちが感じている罪悪感。その人達は自分は何も失わなかったっていうことにすごく罪悪感を感じていたんです。
本当はすごくいいことでラッキーだったことなのにもかかわらず、本当に罪悪感を感じていらっしゃる方が多くて、人付き合いがしにくいっていう。それが、視覚障害者に接した時の、晴眼者(目が見える人たち)がどこかで感じる罪悪感のようなものになんとなくリンクしてるなっていう。持てる者の罪悪感というか。そういう感覚をどこかに思い浮かべてそのセリフは書いたと言うような気がします。
あんまり覚えていないんですよね。書いてる時はほとんど何も考えずに書いてるので。
小野 浅生さんご自身はそういう罪悪感を感じられたことはあるんですか?
浅生 ありますね。実は僕、子供のころすごい難病の患者で月に1回病院に行っていたんですけど、僕だけどんどん治ったんですよ。同じ病院に同じ病気の子供達が毎月集まっていたのでみんな友達になったんですけど、僕一人が治っていく。でも彼らに毎月会わないといけないんですよね。そうすると、他のみんなはあまり病気が治っていないのに僕ひとりだけ治り続ける状態というのがみんなを裏切っているような気がしていました。そのことは未だに思い出すとちょっと落ち込みます。本当は自分の病気が治っているからいいことなのに、なんかすごい「裏切り者」って言われている気がして。
小野 浅生さんは他の子たちに仲間という結びつきで感じている中で、そこから自分だけが抜けることに関する罪悪感を感じるという感じなんですかね?
浅生 そうですね。
小野 人間って仲間意識を持ちたい生き物なのかなって私は今ふっと思ったんですよ。シンパシーを感じたいという気持ちが根源的にある生き物なのかなと思ったんですね。
浅生 人間は絶対に1人では生きていけない生物、社会を作らないと存在できない生物だから、どこかに帰属したいとか仲間を作りたいっていう意識は当然あって、それがひっくり返ると仲間以外を攻撃したいって気持ちになるんだと思うんですよね。
小野 そうですね。その先ほどおっしゃられていた他者に対する悪意とかそういうものに変わってきますよね。
自分の話になっちゃうんですけど、私が最初に書いた『ひかりのりゅう』っていうデビュー作があります。あれは原発事故をモチーフにした絵本なんですけど。やっぱりその時も、震災の津波とか事故の風景をテレビで見たときに、すごくごめんなさいというか罪悪感みたいなものを覚えました。
東京で電気を使って来たにもかかわらずのうのうと被災したわけじゃなく私は生きていて、画面の向こうでいま危機に陥ってる人たちがいるっていうことに対する罪悪感をすごい覚えた。理解していないことに対する申し訳なさというか、なぜ自分が使ってきた電気に関して何も理解してないんだろう?っていう気持ちがあって、そこから絵本を作ったっていうのがあるんですけど、そういう「分かり合えない」っていう状態に陥った時にそこから人の感情って多分化していっていろんなものが浮かんでくるんだろうなって思っているんですけど……。
浅生 『メゾン刻の湯』はどこにもうまく居場所が見られなかった人たちが居場所を見つけ、そしてその場所を手放すわけですよね。
小野 浅生さんはそう読まれたんですね。
浅生 手放すと言うか、そこを維持し続けない。「あ、固定しないんだ」とそこがすごく面白いなって思ったんですよ。つまり、ある種、せっかく手に入れた理想郷・自分の居場所を維持するのか手放すのかっていった時にどちらかというと手放して次へ行こうとする。それはなぜそうしたのか知りたいなぁと思って。
小野 そうですね。それには二つ明確な理由があります。
一つは、彼らはもうそのユートピアを必要としなくなったからですね。全然バラバラな人たちがその場所に来て、一年過ごして、彼ら同士の強い人間関係っていうか結びつきができたから、もうそれを維持するための場所が必要なくなったっていうことがありますね。それに、ほっこりコミュニティを維持する話には絶対したくなかったんですよ。
編集者さんとも第一稿ができた時に「ちょっと長いから、これはクラウドファンディングで成功して、銭湯にそれがキッカケで人がいっぱい集まるようになって、経営が持ち直して、で、それでアキラさんが身元がバレるのを恐れて出ていこうとするのをマヒコが止める、みたいな話でいいじゃん」って言われたんですけど、「そんなクソダサい話書きたくねーよ」って。私の中の何かがそれを絶対に阻止したんですよね。場所が維持されることで維持される人間関係なんてダサくないですか?
浅生 なんだろうなあ、その、物事って結局、人と人っていうか。多様性ということを考えた時にも、自分が相手をどう思うかと相手が自分をどう思うかが変化する以外のことはないなって気はしているんですよ。
もうひとつ言うと、人は絶対に、100%分かり合うことはないので、だから常に宙ぶらりんというか。その宙ぶらりんにどれだけ耐えられるかが、我慢できるかが、多分その多様性っていうものをちゃんと引き受けられるかどうかっていうことだと思うんです。
小野 そうですね。
浅生 宙ぶらりんが我慢できない人はたぶん多様性に耐えられないと思うんです。
小野 宙ぶらりんというのは分かりあえたよっていう実感がない状態のことですか?
浅生 結局、最後の最後はわかってもらえない部分が残ってるっていう状態です。白か黒かって言われたときに、世の中はほぼグレーのはずなのに、「黒じゃないとやだ」っていう人とか「白じゃなきゃ困る」っていう人は多様性というものがどこかで受け入れがたいような気がするんですよね。
小野 その宙ぶらりんの感じって孤独とも言い換えられるなと私は思いました。人はどこかで孤独と付き合っていかないといけなくて、で、他人の孤独も引き受けないと。引き受けるというか、孤独があるって事を知らないと、その人ともつながりあえないなっていう感じがしています。
だから、小説の中でまっつんっていう男の子が家を出て行ってしまうのですが、彼と同じように、その孤独に耐えられない人はすごく言葉として強さのある「繋がり」みたいなものにくっついていくんだろうなっていう感じはしますね。
震災の話に戻っちゃうんですけど、震災の時に絆とか繋がりってすごい言われていたと思うんですけど、私はあの状況にすごくモニョモニョしていました。本当に人と人とが繋がりあえていたら、被災地の中で罪悪感を覚えたりとかする人は出てこないだろうなって思っていましたね。
浅生 物事を単純化してわかりやすく、例えば、絆っていう言葉もそうですけど、簡単にすればするほどこぼれ落ちるものはたくさんあるんですが、でも簡単にしないと済まない人達っていうのもやっぱりそんなに少なくないと思うんですよね。
簡単にしたほうが受け取りやすい人たちもたくさんいるんだけど、僕もやっぱりあんまり絆って言われても困ると言うか。そこまでのこともできないしっていうのもあって。
(その3は本が好き!通信にて2018年4月13日公開予定)